赤穂四十七士はみな赤穂出身かと思ったら、そうでもない。神崎与五郎、茅野和助、横川勘平の三人は美作出身で、特に神崎と茅野は作州津山にゆかりがあるそうだ。大石神社社務所『実証義士銘々伝』には、神崎について次のように記されている。
与五郎は、美作の出身で、父のあとを嗣いで津山城主森美作守に仕えていたが元禄十年、森家の断絶に遭い、浪人となった。一説には、父の半右衛門のとき既に浪人になったともいわれる。
父浪人説では、父又市(赤穂に移ってから半右衛門)は4代藩主森長成のとき家中の派閥争いに嫌気がさして離藩し、勝田郡黒土村に家族で移ったという。いずれにしろ、与五郎にとって津山総鎮守と呼ばれる徳守神社は身近な神様だったのである。
津山市宮脇町の徳守神社の門を入って左手に「神崎与五郎歌碑」がある。
与五郎については以前の記事「目の病を治した井戸」で紹介したことがある。講談で「かんざけよかろう」と語られたほどの酒豪だったという。酒飲みで無骨なのかと思ったらそうではなく、詩歌の名手であったという。歌碑には次のように刻まれている。
神崎与五郎
海山は中に
ありとも
神垣の隔てぬ
影や
秋の夜の月
併せて説明板も読んでおこう。
赤穂義士、神崎与五郎則休はもと津山藩士。森家の改易で赤穂浅野家に仕官した。刃傷事件で仇討ちに加盟、江戸で吉良家の動静を探る討ち入り前の元禄十五年(一七〇二)秋、故郷徳守宮の祭礼をしのんで詠んだ。なお母堂の墓は愛染寺にある。
書は佐藤方南氏
海あり山ありの大地。月はすべてのものをあまねく光り照らす。あの秋の月は美しかったなあ。そう詠んでいるのかどうかは知らないが、徳守宮の祭礼を偲んでいるという。今も徳守神社の秋祭りには、日本三大神輿と謳われる神輿が町を練り歩くご神幸が行われ、「徳守神社神輿」として市の重要有形民俗文化財に指定されている。
日本三大仇討の一つに参加した神崎与五郎。近代法治国家となって禁止された仇討。いっぽう、与五郎の時代から続く徳守神社の秋祭り。変わるものと変わらぬものがある。今後何が残り、何がなくなるのだろう。新聞、テレビ、そして民主主義。当たり前にあると思っていたものは、オワコンなのだろうか。
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