古墳も山城も終末期にもっとも技巧的になる。その特色は古墳では精巧な石組、山城では横堀や畝状竪堀に見られるように思う。本日紹介する山城は大規模かつ見応えのある造りで、つづら折りの険しい登城路を息切れしながらも登る価値がある。さっそく紹介しよう。
美作市下山と鳥渕の境にある大仙山の頂部に「井内城(いのうちじょう)跡」がある。市指定史跡である。
主郭には「井ノ内城跡 海抜252.4m」という表示と四等三角点「大仙山」がある。国土地理院のデータでは252.16mとなっている。城の構造で最も迫力があるのは、郭群を守る西端の二重堀切である。
大仙山は登城路のある東側は険しいが、西側には尾根が伸びている。このため西側からの攻撃を想定した造りとなっている。近くには横堀と畝状竪堀を組み合わせた施設があり、山城ファン必見の見どころだ。
このような技巧的な山城は、毛利VS宇喜多の攻防戦の中で造られることが多い。井内城にはどのような歴史があるのだろうか。登城路の入口に設置してある説明板を読んでみよう。
美作市指定重要文化財(史跡)
井ノ内城(いのうちじょう)Inouchi Castle Ruins
嘉吉元年(1441年)に山名持豊に従った北条氏吉(ほうじょううじよし)が、公文荘(くもんのしょう)を与えられ大仙山頂に築城した。子孫の清氏(きようじ)は地名をとって下山氏と改めた。天文13年(1544年)には後藤氏の攻撃を受け落城したが、その後三星城合戦(1579年)の時に一時利用された。
指定年月日 平成17年3月31日
()内は合併以前の指定年月日(平成7年4月1日)
美作市教育委員会
北条氏吉とは何者か。小田原北条氏の登場にはまだ早い。調べると『岡山県勝田郡志』が出典のようなので、原文を引用しておこう。
井の内城址
公文村大字下山にあり。嘉吉元年北条氏吉山名持豊に従ひて赤松満祐を白旗城に攻めて功あり。持豊後藤勝政の属地公文庄を割きて之に与え地頭職に加列す。是に於て城を築きて居る。氏吉は時氏の玄孫なり。後氏晴、氏継、氏元を経て清氏に至る。天文十三年尼子晴久族将国久をして東作を略せしむ。清氏鷲山(保志賀)小田(塩見)三星(後藤)と約して之を拒く。三星約に背きて国久に通し遽に来り攻めしむ。城遂に陥り清氏逃れ奔る。後下山に帰住す。子孫下山を氏とし今尚存在せり。
北条時氏とは名執権3代泰時の長男だが、父に先立って病没した。その子孫が城主だったというから興味深い。鷲山城の星香氏、小矢田城の塩見氏、三星城の後藤氏と同盟して尼子氏の侵入を防ごうとしたが、後藤氏の裏切りにより落城の憂目に遭ったという。
その後、三星城合戦でも戦場となったようだ。吉備群書集成第三輯所収『三星軍伝記』巻二「備前勢下山の城を責むる事」には、次のように記されている。
扨勝間城には、今朝岩見田の在家を放火せしは、下山等の奴原のけいさく成るべし。にくきもの共、今朝猪の内城を責落せ迚、明日四日卯の刻に、津田与市左衛門、吉田佐五兵衛両人を将として、諸勇士鉄砲の者都合百余人勝間城を打立て、下山猪の内城へ押寄せける。元来此城は下山等代々の居城にして、要害堅固の城なれども、天文の頃尼子勢の為に落城す。其時半内が祖父筑前守清氏、其子大膳久氏・源五郎氏勝等籠城すといへども、大勢に取込られ清氏久氏等討死する。氏勝は漸く切抜て伯州大仙へ逃行と云ふ。此節落城して開城成は、俄に惣廻り程取繕ひし事なれば、持こらふべき様なけれ共、此侭明渡すにも無念に思ひ静まり返て居たり。寄手の者どもふしんながら、先鉄砲にておどし見よとて頻に打せけれども、纔かの人数なれば一つ所へ寄合故、少しもさはる事なく、寄手の者共は早落失せて明城成と心得、切岸近く攻寄する。用意の石を当るを幸ひ投懸けゝる。寄手大に難儀して石に打たれて死する者多く、我先にと逃下りければ、しすましたりと城内の者落支度して、間道より落延けり。下山次郎兵衛・同多郎左衛門跡に残て、城に火を掛焼落しけるを見て、寄手共城は落たれども、敵の首一つだにも取らざる事残念成ば、追討にせよとひしめきけれども、思ひ/\逃延て一人も討れずして三星城へ馳付ける。此時前手には津田与次郎・小林彦介・今村権内等、名有士討死し、手負の者三十余人と云ふ。偖も岩見田を放火せしは下山と心得て責たれども、是は後藤左馬之介殿謀にて、西尾左下が宵より忍び行て放火せしは、下山家の難儀とこそ云あへり。
三星城合戦で後藤氏に与する下山氏は、石を落として宇喜多勢にダメージを与え、さっさと井内城から逃げ出していた。あれほどの防御施設は活用されなかったのだろうか。おそらくは下山在城当時には存在せず、宇喜多勢が占拠した後に毛利氏への備えとして築造したのではなかろうか。毛利氏との戦いが終結する秀吉の中国攻めまで、あと三年という戦国終末期であった。
お目に留めていただきましたこと、誠に光栄に存じます。精巧で大規模な素晴らしい山城ですね。いついつまでも地域の宝として大切にされることを願っております。
投稿情報: 玉山 | 2024/09/09 23:14
偶然見つけました。母の実家です。家の裏口から大仙山に登り、井ノ内城跡まで歩きました。桜の季節は叔父がツリーハウスを作ってくれお花見をしました。祖先は下山氏春と聞いて育ち、それ以外の詳しいことは聞いておりません。公文小学校の前を歩き、祖母宅に。奇しくも繋がりを辿れ嬉しいです。ありがとうございます。
投稿情報: ゴローザ | 2024/09/09 21:55