東西の峰がある麦飯山(むぎいやま)城には四度目のチャレンジでコンプリート出来た。最初は何年前のことだったか横田公園から西峰に登ったものの、頂上付近が藪と化していたため撤退した。二度目は比較的最近のことで西峰登頂に成功し、二重堀切を二か所確認できた。その後、東峰にも城跡があることを知り、東側から急斜面を上って西峰に続く尾根の堀切を確認した。しかし東峰には南側の尾根にも堀切があることを知り、今度は北側の尾根から東西両峰の鞍部に出るルートで登頂し、すべての堀切を確認して下山した。
玉野市槌ケ原に「麦飯山城址」がある。ここは西峰で四等三角点「横田」がある。標高は232.30mで、城址の標柱には「標高二三三米」と示されている。
標柱右の藪をかき分けて少し下りると二重堀切がある。
引き返して東峰に向かうと、こちらにも二重堀切がある。
東に向かって縦走すると、玉野市槌ケ原と同市八浜町大崎の境に東峰がある。
西峰からの攻撃を防ぐ堅固な堀切である。
崖をよじ登れば平坦な曲輪があり、右斜面を進むと最後の堀切にたどりつくことができる。
麦飯山は東西の峰それぞれに3つの尾根があり、うち2つずつの堀切が設けられている。堀切のない尾根は急峻で特段の防御は必要なかったのだろう。ただし、その尾根は西峰ではメインの登山道であり、東峰では私の3度目の登頂ルートである。山頂に近付くにつれて勾配がきつくなる。さすがの寄せ手もこの尾根から攻撃しようとは思わないだろう。
眺望はそれほど良くないが、西側には木々の向こうに常山城のある常山の大きな山影が見える。北東方面には怒塚(いかづか)城のある怒塚山が確認できる。この麦飯山城を含めた3城で防衛ネットワークを構成していたのだろう。ここを守備していたのはどこの軍勢なのか。登城口である横田公園の隅に置かれた説明板を読んでみよう。
麦飯山城
麦飯山城は宇喜多氏の支城で、築城年代は不明であるが、東西の峰に城跡があり堀切が四ヶ所ある。天正七年(一五七九)毛利氏は麦飯山城を奪って宇喜多攻めの拠点にするため、小早川隆景率いる二万の大軍で包囲した。宇喜多の援軍含めて三千の軍勢がこもっていた。麓の井戸を押さえられたので、城主の明石源三郎、家老の田中源四郎以下、山から下りて毛利軍と戦い、城主家老ともに戦死し落城した。
その後、毛利氏は八浜合戦の際に麦飯山周辺に布陣し、八浜城に陣を進めた宇喜多軍と交戦している。麦飯山城は連郭式の山城で中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。
宇喜多勢の城であった麦飯山城を天正七年に毛利勢が奪った。小早川隆景率いる二万の大軍が攻め、城将明石源三郎が戦死したという。この城をめぐる戦いについては「謎の前哨戦、麦飯山の戦い(八浜合戦・上)」で検証したように不審な点が多い。軍記で天正四年(あるいは三年)とされる年代を、説明板が天正七年としているのも史実との整合性を考慮したからだろう。宇喜多氏が毛利氏から離反するのは天正七年のことだからだ。
しかし、毛利勢が宇喜多勢からこの城を奪い取ったということ自体が怪しい。天正十年初めに児島攻防戦が始まり、麦飯山は両勢の注目するところとなったが、機先を制してこの山を押さえたのは毛利勢であった。その大将は輝元の叔父穂田元清である。これを迎え撃った宇喜多基家が戦死したのは「足の神様となった戦国武将(八浜合戦・下)」で述べたとおりだ。
児島では毛利勢が優勢となり、美作西部の城も毛利勢の手に落ちていた。家督を相続したばかりの宇喜多秀家を取り巻く情勢は危機的であった。これを逆転するのが秀吉による中国攻め、その後の中国国分であった。
その後、児島は宇喜多氏の領分となり、戦が起きることはなくなる。児島の拠点は常山城となり、麦飯山城は捨て置かれたのではないか。毛利勢の最前線を当時の姿で見ることができるのだ。
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