私が物心ついた頃に日本一の高層ビルはサンシャイン60だった。エレベーターの階数表示がどんどん変わるに驚いた。このビルを東京都庁が抜くとさっそく登り、無料に懐の深さを感じた。都庁を抜いたのは横浜ランドマークタワーだったが、見上げたのみだ。これを抜いたのはあべのハルカスだった。最上階に登ったが、雲に包まれて何も見えなかった。そして、2027年度には東京駅近くのTorch Towerという390mのビルが日本一になるという。
現代の最先端を代表する風景は高層ビルと言えるかもしれない。高いものは目立つ。古代における最先端のランドマークは寺院の層塔だった。白鳳期には全国に多くの寺院が建設された。その規模と彩色に人々は圧倒されただろう。本日は美作の古代寺院を紹介しよう。
美作市藤生(ふじゅう)に市指定史跡の「閻武(えみ)廃寺の礎石」がある。
向こうに市立江見小学校が見える。ここは出雲街道が通過する江見に隣接している。寺院は江見盆地のランドマークになっていただろう。説明板を読んでみよう。
作東町指定文化財
閻武廃寺の礎石
昭和四十一年十月一日指定
この地は吉野川の右岸にある平坦な耕地で、畑の中に大きな礎石がある。奈良時代前期の創建にかかる寺院跡で「藤原の塔」の遺称がある。この心礎は長径二m、短径一・六mに、直径五十五cmの円柱跡らしいつくり出しがあり、その位置は往時と変わっていない。付近から戦前に発見された、同時代の巴瓦が保存されており、一帯には今も破片が散在している。この地域の一部が道路用地に買収されたため、約三百平方mを限定して、昭和四十八年(一九七三)発掘調査を行った結果、白凰期の寺院跡ということが確認された。
作東町教育委員会
白凰は白鳳の誤りである。「藤原の塔」という名称は古い塔の存在を伝えるかのようだ。播美国境から美作入りした旅人は、この塔を見て新時代の到来を実感したに違いない。新編『作東町の歴史』には、次のような記述がある。
かつて後醍醐天皇が隠岐へ遷されるにあたり、道を杉坂から川崎(今の江見)を経て付近の寺に入り、旅装を解いた後、天王(地名)をのぼり南海から楢原へ向かったと伝え、その泊りの寺がこの閻武寺であったとされる。
数百年を経て配流の身となった後醍醐天皇が泊まったという。『岡山県通史』は帝が美作入りして最初に泊まった場所を「英田駅」とする。英多郡衙は美作市川北にある高本遺跡(「閻武廃寺の礎石」の南側)とされているから、帝の宿泊地が閻武寺と考えるのは妥当だろう。帝は藤原の塔をご覧になったのだろうか。それとも心礎しか残っていなかったのか。
美作市山手に市指定文化財の「大海(だいかい)廃寺の礎石」がある。
緑に包まれて塔心礎が残っている。いったい、どのような寺院だったのだろうか。説明板を読んでみよう。
作東町指定文化財
大海廃寺の礎石
指定昭和四一年十月一日
この地は康安元年七月に焼失した寺院跡で一に“吉野寺”とも称し、この心礎は、長径一・六六m、短径一・五一m、そのほぼ中央に直径二一cm、深さ十二cmのほぞ穴があり、その位置は昔日と変わっていない。付近からは奈良時代後期様式の平瓦と巴瓦および鴟尾のそれぞれ破片を発見保存されており、一帯には今も破片が散在している。
作東町教育委員会
鴟尾といえば、天守の鯱、ポルシェのリアウイングのようなもので、建物を壮麗に見せる効果がある。焼失したのは康安元年だから1361年である。この年七月に南朝の山名時氏が東美作に進攻しているから、戦乱に巻き込まれたようだ。では、創建はいつのことだろうか。
ともあれ、このたびの二次にわたる発掘によって、大海(吉野)廃寺が作州最古の伽藍として遠く白鳳の昔に繁栄していたこと、言いかえれば、当時作東の地域においてこの伽藍を中心に一大地方文化の華がけんらんと咲き匂っていたことをうかがい得たのは、まことに大きな成果であったというべきである。
絢爛と咲き匂う伽藍が道行く旅人の目を引いたことだろう。ここを通る旅人はどこへ向かっていたのか。近くを通るのは県道5号作東大原線で主要地方道にも指定されている。起点の旧作東町川北は出雲への道が、終点の旧大原町下町は因幡への道が通過する。現在と同じく、地方を結ぶ役割を担った主要道であった。
その後山岳仏教がさかんになると、寺院は山に籠もるようになる。街道沿いの寺院は、信仰の普及によってランドマークとしての役割を終えたのであろう。古代の地方創生、それが白鳳期の寺院建設ラッシュだった。
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