神聖ローマ帝国のことを「神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらない」と批評したのは、啓蒙思想家ヴォルテールだ。現代でも民主主義を冠する独裁国家があるから、国号が実態と異なってもよいのだろう。ここでは「めざせローマ!」という気持ちを込めているのだ。
これは最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世のコインである。FRANCISCUSⅡ. ROMANORUM IMPERATOR と支配の及ばないローマを名乗っている。話を大きく始めたが、本日はありもしない官職「琉球守」を与えられた武将の話である。
鳥取市気高町山宮(けたかちょうやまみや)に「津和野藩主亀井家墓所附(つけたり)亀井茲矩墓(これのりのはか)」がある。
津和野藩主家の墓所は当然島根県の津和野町にある。ここ鳥取県にあるのは附(つけたり)の亀井茲矩の墓だ。尖頂方柱型の墓標には「中山道月大居士」という戒名と命日「慶長十七年正月廿六日」が刻まれている。どのような経歴のある武将なのか。墓所入口にある説明板を読んでみよう。
亀井武蔵守茲矩
亀井武蔵守茲矩は出雲国(島根県)に生まれ、元の名を湯新十郎といった。山中鹿之助らと相結託し、尼子氏の再興を山陰の各地で毛利氏と戦う。鹿之助の介により亀井秀綱の女時子とめあい亀井氏を名乗る。
その後、豊臣秀吉の鳥取城攻めに参加、一五八一年(天正九年)第二回鳥取攻めに鹿野城を守って功があり一万三千八百石をもらい鹿野城主となる。
茲矩は大変豪快な武将で、秀吉が「因幡半国をお前にやろう」といったのに対し「琉球をください」といい、その大胆な発想を誉め賛えて「亀井琉球守」と軍扇に書いて与えたという。
その後、関ヶ原の戦いには東軍(徳川方)に属し因伯鎮撫となり三万八千石に加増。さらに1609年(慶長一五)には四万三千石となるが、狭い日本に飽足らず朱印船貿易を行い、大きな利益を得ている。この資金を元に領内の新田開発、殖産に力を入れた。又、領民をいたわり、敬老会なども開催した。現在でもその善政の恩恵はたくさん残っている。
今でも「亀井さん」と呼ばれ、郷土の人達に親しまれ尊敬されている。
一六一一年正月病気の為、五六才で鹿野城中に没し、はるか鹿野の城山を望むこの地、明星が鼻に埋葬された。
茲矩はもと「湯」という名字の一族だった。温泉に関係がありそうだと思ったら、玉造温泉のあたりを支配していたらしい。戦いの疲れを湯で癒していたのだろう。山中鹿介とともに尼子再興に尽力したが、上月城の戦いでは秀吉のもとにいたため生き延びることができた。
茲矩が「琉球守」を与えられたエピソードはよく知られている。因幡半国では満足せず琉球をくれとは大胆不敵。独立国琉球に対する侵略の意図を表明したと見ることもできるが、武将の戯言に過ぎないだろう。もとの話は少々異なるようだ。寛政重修諸家譜』巻第四百二十六 宇多源氏佐々木支流「亀井」の茲矩略伝に、次のように記されている。
十年右府明智光秀がために生害あるののち、太閤毛利輝元と和議をむすび、軍を旋して姫路に着陣し、六月八日諸将を会して光秀誅戮の謀を議す。このとき太閤茲矩に言ていはく、さきに出雲国をあたへむと約し、既に右府に達すといへども、輝元と講和のとき、出雲国半国を与へしにより、茲矩は他邦にをいて領地をのぞむべしとなり。茲矩こたへて、今度光秀征伐ののちは、海内皆麾下に属すべし。我日本にをいてのぞむところなし、ねがはくは琉球国をたまはらむとといふ。太閤其壮勇を感賞し、腰の団扇を採て表に琉球守殿と書し、裏に秀吉としるして判形をくはへ、これをあたへらる。
「茲矩、お前には出雲を与えると約束して、信長さまのお耳にも入れておいたのだが、毛利と講和したとき、出雲を半分与えてしもうたのじゃ。ほかに欲しい土地はないか。」
「このたび光秀が成敗されたなら、天下は秀吉さまのものとなるでしょう。日本において私がいただける場所などありますまい。どうか琉球国をお与えください。」
「おお、よう言うた。ならば貴殿を琉球守に任ぜよう。精一杯励むがよい。」
茲矩は「一六一一年正月」に因幡鹿野城で亡くなったという。墓碑に刻まれた「慶長十七年正月廿六日」は1612年に当たる。没後400年の平成24年には鹿野を中心にイベントが行われたようだ。亀井琉球守ではなく茲矩公として地域の人々に敬慕されている。
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