十勇士には真田十勇士と尼子十勇士がある。真田十勇士は猿飛佐助に霧隠才蔵、三好晴海入道と有名人が多いが、尼子十勇士は山中鹿之助以外にほとんど知られていない。山中鹿介は実在するが、その他の勇士たちはどうなのだろうか。鹿介の墓近くに、このような人物の墓を見つけた。
鳥取市鹿野町鹿野の幸盛(こうせい)寺に「日野五郎之房の五輪塔」がある。
「尼子十勇士の一人」だという。試みにコトバンク(精選版日本国語大辞典)で尼子十勇士を検索しても、「日野五郎」なる名前は載っていない。鹿之助に倣ってか全員が「○之介」である。
尼子十勇士が活躍したのは尼子再興戦でのことだ。その最後の戦いとなったのが播磨上月城である。毛利と織田の戦いが激化する天正六年(1578)、尼子再興軍は秀吉軍の後詰めを得て毛利方と対峙しようとしていた。ところが三木合戦が始まり、秀吉の援軍は期待できなくなってしまう。
尼子再興軍は上月城を死守しようとするが、毛利の大軍に囲まれてついに開城を決意する。城将の自刃と引き換えに城兵の助命を求めたようだ。毛利方大将の吉川元春らが出した起請文の内容が今に伝わる。「吉川元春外三名連署起請文写」(「譜録」天野毛利、山口県文書館蔵)
此方の望みに任せて、下城有る可きの由候条、城内の衆一人も残らず、進退違儀無く助け置く可く候、下山の刻、勿論人質等の儀申し付く可く候、右の旨少も偽れば、日本国中大小神祇、厳島両大明神、熊野三社権現、杵築大明神、別しては大嶺・愛宕地蔵権現、殊には磨利支尊天・八幡大菩薩・天満大自在天神の御罰を罷り蒙る可きもの也、
(天正六年)七月五日
吉川元春(御判)
小早川隆景(御判)
口羽中務大輔春良(判)
宍戸隆家(判)
日野五郎(之房)殿
立原源太兵衛(久綱)殿
山中鹿助(幸盛)殿
山中鹿介と並ぶくらいの武将だから、尼子再興軍では主力だったようだ。尼子十勇士のモデルに間違いなかろう。鹿介は捕虜となって移送途中に殺され、立原源太兵衛は脱出に成功して阿波に逃れ、日野五郎は亀井茲矩と合流することができた。ところが『鹿野町誌』上巻によれば、日野は茲矩が朝鮮に出征している間に不祥事を起こし、帰国した茲矩に誅罰されたという。
日野五郎之房の五輪塔のすぐ近くに「亀井茲矩公実姉之墓所」がある。「小原豊前守宗勝夫人」とあるが、小原氏は石見の有力武将益田氏の重臣である。二人の間の子真清(さねきよ)は、尼子氏の家臣で茲矩の母の実家、多胡氏を継いだ。多胡氏は津和野藩の筆頭家老として藩主を支えることになる。
巨大な五輪塔は藩主亀井氏と重臣多胡氏を結ぶ紐帯としての意味を持つのだろう。山中鹿介の墓といい、日野五郎の墓といい、幸盛寺にある三基の墓に眠る人は、若き日の茲矩にとって心の支えだったに違いない。一城の主となってもかつての恩義を忘れない。この情の深さが茲矩が慕われる理由なのである。
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