ネットがなくては生きていけないように思っている人は多いが、本当に欠かせないのは物流である。現代の主力はトラック輸送、近代は鉄道が担っていた。江戸時代はどうなのか。西廻り航路に東廻り航路、菱垣廻船に樽廻船。海上輸送ばかりが注目されているが、河川舟運にもっと注目してよいのではないか。
加東市上滝野の闘竜くすえあに「贈正五位阿江與助翁像」が建立されている。大正八年十一月に贈位された。
近世の阿江家は姫路藩滝野組大庄屋として指導的立場にあり、舟運を担う滝野舟座の座元でもあった。こうした立場を得たのは、先祖阿江与助の功績による。どのような人物なのか、説明板を読んでみよう。
阿江与助銅像
「阿江与助」は加古川舟運の祖と呼ばれる人物です。加東郡河高村に生まれ、後に上滝野村の阿江家を継ぎ、文禄三年(一五九四年)には滝野川(滝野以南の加古川)を慶長九年(一六〇四年)からは上流の田高川(滝野以北の加古川)の開削を成功させました。また、この功で滝野船座の座元に任じられ、加古川舟運を支配しました。
加古川舟運の開発は二期に分かれます。第1期は、地頭生駒玄蕃が貢米を輸送するにあたって加古川に注目、与助たちに通船を妨げる川底の岩石を除去し、浅瀬に水路を通させました。この区間の内、与助は滝野から大門村(社町)までを担当しました。第二期は領主池田氏による滝野以北の浚普請および新町河岸の造立、高砂港の整備です。与助は田高村の西村伝入斎とともに滝野より上流の川底を浚えることを命じられ、慶長十一年(一六〇六年)に丹波本郷までの通船が可能になりました。
与助像は、大正九年六月、正五位追贈により闘龍灘河畔に建立されましたが、昭和二十年春、太平洋戦争のため供出。平成二年五月、先の台座を生かし再建されました。
現代に置き換えるなら、トラック輸送に適する広くてカーブの緩い道路を整備したということだ。二期に分かれる開発の第一期は、姫路城を預かっていた木下家定の郡代生駒玄蕃の命によって進められた。戦乱が収束したことにより、物流を活発にしようと考えたのだろう。
第二期は池田輝政の命による。インフラが整備され産業振興の基礎が築かれたのである。阿江与助の貢献は大きく、贈位にふさわしい人物だと評価できよう。『贈位諸賢伝』一(昭和二、国友社)には、次のように記されている。
名は正友、実は大久保七兵衛の子なり、播磨加東郡瀧野村阿江重兼の嗣と為る、文禄年間、郡代生駒玄蕃の命を承け、瀧野川を開発して高砂に至るの間、舟筏を通ずるを得、慶長九年、姫路城主池田三左衛門の命を以て、田高川を開鑿して通船の便を得せしむ、十九年、徳川家康大阪出陣の際、神崎川に船橋を架して功を賞せらる、其他水道を利し、新田を拓き、郷人の景仰する所となれり、寛永十一年正月十七日歿す。子孫相踵て開拓の功業多し。
ここで注目したいのは、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣において、神崎川に船橋を架したことだ。『寛政重脩諸家譜』巻第二百六十三には、当時姫路藩主であった池田利隆の項に「十九年大坂の役に尼崎に出張し、神崎の川をわたり、敵数十人を討捕へ、また中津川をわたして天満口にすゝみ、所々を放火」とあるから、与助が活躍したのもこの時だろう。
加古川舟運の功績も大きいが、大坂の陣での活躍が阿江家発展の礎となったとも言えるだろう。さすがは帝国政府が贈位した人物だ。しかも失われた銅像が平成の代に再建されるのだから、現代的な評価も高い。時を越えて讃えられる人物こそ、真の偉人である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。