海上保安庁と海上自衛隊は似ているが任務が異なる。簡単に言えば警察と軍隊で、不審船に対する追跡、停船命令、威嚇射撃までは海上保安庁、相手が武装しているなど高度な対処が必要な場合は海上自衛隊が出動する。海上警備行動を発令したうえで立入検査、武装解除を行う。
能登半島沖不審船事件に代表されるように、日本海側の領海警備は我が国の安全保障の要である。本日の舞台である鳥取県が接する海域を管轄しているのは、海上保安庁の境海上保安部、海上自衛隊の舞鶴地方隊である。
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字泊に「泊(とまり)舟番所跡」がある。
船番所は通行する船の検査や徴税、沿岸警備を任務とした役所である。税関と海上保安庁を兼ねたようなものか。税関でいえば神戸税関境税関支署が鳥取県を管轄する。
鳥取藩には境、米子、赤碕、泊、賀露、浦富など大きな港があり、そこには船番所が設けられていた。ここ泊舟番所の役割について、石碑右側の説明板を読んでみよう。
鳥取藩が、外国船の取締を目的として、泊に見張り所を設けたのが寛永二十年(一六四三年)である。
初めの十年間は、倉吉荒尾家から半月交代で出張勤務していたが、藩士が常駐する舟番所になったのは承応二年(一六五三年)である。
幕末期の寛政頃から、ロシア、イギリス船などが日本の沿岸に出没し始めたため、藩は、海防を更に強化し、小浜から長瀬間に、百六十石積三艘を主力として大小百三十四艘を配備し、非常の際には、百七十名の士卒を泊番所に参集することを定めた。
天保十三年(一八四二年)から嘉永六年頃にかけて、大筒三挺を備えるなど番所の警備はますます固められた。
藩の海防計画は、年をおって強化されたが、元治元年(一八六四年)泊の沖合いに蒸気船を見たほか外国船との接触はなくて終わった。
番所の制度は、明治二年七月廃止されたが泊番所が警備全般を解かれたのは明治四年十月である。
舟番所の敷地・建物は明治八年泊小学校の校舎に払い下げられ、「御番所学校」といって村びとに愛称された。
(泊村誌より)
平成七年 湯梨浜町教育委員会
ここには徴税のことが書かれていないが、問屋に命じて出入りの舟を改め商品に課税した。残された記録によれば、抜荷(ぬけに)と呼ばれる脱税行為を厳しく取り締まったことや免税の訴えが多かったことが分かるという。税金を免れようとうとする思いは今も昔も変わらない。
泊舟番所が海上警備行動に出動することはなかった。元治元年に沖合いを通過する蒸気船を見たというだけである。いや、これは平和であったことを素直に喜んだらよいのだろう。石碑左側の説明板は「泊の大名行列」について記されている。読んでみよう。
湯梨浜町指定無形民俗文化財
泊の大名行列
平成十九年十二月十七日指定
因伯における大名行列の歴史は、初代藩主・池田光仲が曽祖父徳川家康を祀るため、慶安三年(一六五〇年)日光東照宮を分霊し、因幡東照宮(現樗谿神社)としてこの地に勧請したことに始まる。この神幸祭で催される武者行列に習い、各地で同様の行列が行われるようになった。
泊地区に伝わる大名行列の起源は詳らかでないが、安永二年(一七七三年)、泊舟番所の番士らが地元民に作法を伝授したことが始まりとされる。現在は、灘郷神社の例大祭として十月の第二月曜日(体育の日)前日に執り行われている。
榊が前祓いして練り歩き、幟を背負った武者(幟負)の行列が続く。幟負は青竹の中に一文銭を取り付けた大杖をチャリンチャリンと鳴らしながら前後に倒してゆっくりと進む。奴装束をまとった若衆が挟箱、長柄、大鳥毛など採り物を持ち、「ヒニヨーヤナ、ヒニヨイト、マカセ」と威勢良く堂々と練り歩く。最後に神輿がしずしずと進む。
かつては園区にもこうした行列があり、明治四十四年(一九一一年)、国主神社の遷宮祭に泊とともに奉 納したことが記録に残っている。一時途絶えていたが、大正十年頃から行われるようになり、たいへん賑やかであった。しかし、若年層の減少により園区は中止。現在、泊地域では泊区だけが大名行列の伝統を守り続けている。
湯梨浜町教育委員会
この行事の起源は、安永二年(一七七三)に泊舟番所の番士らが地元民に作法を伝授したことだという。天下泰平であればこそのエピソードだろう。
来年度予算で防衛費は大幅増額で6兆円超えという話がある。ウクライナ侵攻や台湾情勢の緊迫化を考えると、多くの人が納得する雰囲気がある。北方領土はもう還ってこないし、拉致問題は何ら動かない。閉塞感に満ちた今、泊舟番所を訪れ、海の向こうの国々と如何に付き合うのかを考えてみてはどうだろうか。
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