昭和38年に岡山県南に100万都市が出現するはずであった。当時の自治体名では西は鴨方町、東は邑久町、北は御津町、南は玉野市、児島市という超大型都市である。ざっくり言えば岡山市と倉敷市、総社市が合併したようなものだ。
昭和37年12月に関係33市町村で合併議決がなされ、翌年には新大都市が実現する…と思いきや、岡山、倉敷、児島の市長が反対し、構想は頓挫してしまうのである。
岡山市北区矢坂本町と矢坂東町の境に「富山城跡」がある。写真は本丸跡である。
城跡のある矢坂山は美しい万成石の採石場があるため、すべての曲輪が残っているわけではない。にもかかわらず、現存部分だけでもかなりの大きさだから、往時はいかほどであったか。しかも、戦災で焼失した岡山城の石山門は富山城の大手門だったというから、本格的な櫓もあったのかもしれない。
築城者は富山大掾重興と伝わる。富山氏はこのあたりの土豪であったが、金川城の松田元隆に城を奪われた。元隆は本拠を富山城に移したが、この元成の時に金川城へ戻した。その後は松田一族や重臣が城を守った。元成の弟元親、その子親家、重臣横井土佐、当主元盛の子盛明が在城したが、永禄十一年(1568)に宇喜多直家が金川城を攻略すると、富山城も宇喜多氏のものとなった。
宇喜多時代の城主は直家の異母弟忠家、そして、その子左京亮(さきょうのすけ)、のちの坂崎出羽守である。関ヶ原後に小早川秀秋が岡山城主となり、富山城は廃城となった。岡山は岡山城の城下町として発展し、今や人口70万超の政令指定都市である。
ところが地元の『大野村誌』によれば、まったく別の可能性もあったという。
宇喜多直家は此の富山城を尚一層大城とする新計画を樹てゝ居たので、若し之が実現して居たら本村が岡山市と位置を代えて大富山市が実現して居たであろう。富山城を中心とする高燥な土地は、今は一大公園となり、麓の谷間にグラウンドも設備され、山腹は高級住宅や旅館料亭が建ち並んで居るであろう。今の操車場の煤煙や噪音の代りに、表玄関たる大停車場が建てられ、笹ヶ瀬川は大運河となって、大船巨舶が岸壁に輻輳し繁華街が大野村を中心に東西南北に伸び広がって居ったであろう。
岡山市ではなく富山市(とみやまし)となっていたというのだ。ほんの一つの可能性に過ぎないが、村誌の筆者は大はしゃぎで筆を走らせている。こんな妄想は嫌いじゃない。もしかすると100万都市になっていたかもしれない。現在の日本の姿だって、そんな一つの可能性が実現したに過ぎず、他に無数の「あったかもしれない日本」が妄想を待っているのだ。
平成18年に安倍首相は訪中して胡錦濤国家主席と会談した。この二人が昨年相次いで表舞台を去った。安倍元首相は凶弾に倒れ、胡錦濤前主席は共産党大会で連れ出されるように退席した。日中国交正常化50年であったのに友好ムードはない。このような可能性を、戦略的互恵関係構築で日中が合意した当時、いったい誰が予想しえたであろうか。事実は妄想より奇なり。実現しないから妄想なのかもしれない。
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