山城には堀切、土塁、切岸など様々な防御施設があるが、守りを堅くしていればよいわけではない。欠かせないのは井戸である。飲料水が確保できなければ戦闘を継続しがたい。水に困った城兵はそれと悟られないために、馬に白米をかけて洗うそぶりをしたという。山城にとって井戸は命の源であった。
岡山市北区御津金川、御津下田、御津草生(みつくそう)の境にある臥龍山に「金川城跡」がある。かなり大規模な縄張で市の史跡に指定されている。
ここを本拠としていたのは備前西部に勢力を有した守護代、松田氏であった。備前東部の浦上氏と競うように勢力を伸ばし、主家赤松氏から自立して戦国大名化した。松田元隆の時代には南部の富山城に拠っていたが、その子で中興の祖と呼ばれる元成が文明十二年(1480)に金川城に本拠を移した。
ここ金川は東西南北に通じた要衝である。本丸跡にある石碑と説明板には、次のように記されている。
玉松城碑
臥龍山にはでめて砦が築かれた年は明らかでない。戦国時代の初め一四八〇(文明十二)年頃、松田左近将監元成が本拠を金川に移して以来五代約九十年にわたって西備前随一の山城として栄えた。一五〇九(永正六)年城主元勝は三条西実隆より玉松・麗水の二書を贈られ、以後玉松城と命名した。一五六八(永禄十一)年七月五日、宇喜多直家に攻められ、城主元輝嫡子元賢共に壮烈な戦死を遂げ七日早暁ついに落城した。
その後、一六〇三(慶長八)年徳川幕府の一国一城令によって廃城となった。
落城ここに四百年の星霜を経る。
昭和四十二年四月 板津謙六撰文史跡 金川城(玉松城)跡
この城の築城は諸説があって定かでないが、松田氏系図第八代元成が松田氏本城としたのは確かのようである。
永正六年(一五〇九)玉松城と命名(三条西実隆)
永禄十一年(一五六八)宇喜多直家により落城
宇喜多春家在城
慶長八年(一六〇三)日置忠俊修築
廃城も不明であるが元和の一国一城令まであったかも知れない。現状は最終的遺構である。
『御津町史』に掲載の系図によれば、松田氏は元成-元勝-元隆-元盛-元輝-元賢と続いた。城の雅名「玉松城」は、古今伝授で知られる三条西実隆から与えられたというから、地方の土豪と侮ってはならない。
城跡には井戸が3基あり、そのうち本丸の「天守の井戸」は岩盤を穿った巨大な井戸で、見る者を圧倒する。松田氏の威勢を象徴するかのような遺構で、私はこれを見るために登城したと言っても過言ではない。
二の丸には「杉の木井戸」がある。
本丸と北の丸の間には「白水の井戸」がある。
北の丸の北尾根は二条の堀切で遮断している。
このように金川城は堅固な守りを誇ったが、二日ほどであっけなく落城した。戦いの始まりを『備前軍記』は、次のように記している。巻第三「宇喜多松田を討ち金川落城の事」より
永禄十一年七月直家より津高郡虎倉城主伊賀左衛門久隆(是も直家の聟なり)同与二郎(明石掃部が聟なり)を招きていひけるは松田左近将監われらに反心あると聞きぬ。よりて討果すべく思ふ。いかゞ謀るべきとあれば、其頃近隣迄もみな松田をうとみて伊賀父子とも不和なりし故、伊賀答へて此節松田を討給はんことやすかるべし。御先手仕るべしと手にとる様に請合ひける。直家大きに悦びて其謀ども伊賀父子とよく牒し合せて相図を定め、伊賀は虎倉へ帰りける。さて七月五日約束の日限なれば、直家百騎計の人数にて赤坂郡矢原村に至り陣を取る。伊賀はかねて忍を付置き内通せし事なれば、五日の夜金川城内道林寺丸へ人数を忍て入れ時の声を揚げたり。折ふし左近将監は城外に出て留守なり。家老横井又七郎取合せ手配し門々をさし堅む。伊賀父子鉄砲を打かけて本丸を攻む。左近将監は是を聞て急ぎ馳帰り搦手より城に入る。横井も人数を出して是を迎え入て、こゝを専と弓鉄砲にて是をふせぐ。左近将監櫓に上りて伊賀に向て、何の故を以てはからず城を攻るやと、しばらく言葉戦する所を、伊賀が兵士ねらひすまして是を搏つ。左近はこゝに討れにけり
と、このように松田元輝は討たれた。その後は子の元賢が指揮したものの、七日の朝、堪えきれず城外へ逃れた。そして備中を目指したものの、現在の岡山市北区御津下田で討たれたという。
堅固な守りに見えた金川城だが、家中の分裂により二日ほどで落城した。やはり、人は城、人は石垣、人は堀。人の結束がなければ、堅城も脆い。「近隣迄もみな松田をうとみて」とあるから、松田父子に人望がなかったのかもしれないし、伊賀父子に野心があったのかもしれない。
いま我が国は、敵基地攻撃能力の保有だとか防衛費の増額だとか、防衛力強化に動き出そうとしている。しかし本当に強化すべきはミサイルの力ではなく、外交努力という人の力だろう。日本は決して沈むことはないが、不沈空母ではなく、諸国民の公正と信義を信頼する誇り高き国である。