今度合戦不起於叡慮、謀臣等所申行也、於今者、任申請可被宣下、於洛中不可及狼唳之由、可下知東士者、
このたびの合戦は私の考えで起きたのではなく、はかりごとをめぐらす悪い奴らが言い出して実行したものだ。今においては、幕府の申し出に従い、宣旨をくだすこととしよう。洛中で狼藉が発生しないよう東国の武士に命令せよ。
『吾妻鏡』巻廿三承久三年六月十五日条である。京に攻め上った北条泰時に後鳥羽上皇が告げた言葉である。上に立つ偉いお方の判断は常に無謬であるから、大きく構えて泰時に告げた。「上京ごくろうであった。京の警備はそちらに任せるぞ。」
兵庫県佐用郡佐用町三日月に「三日月のムクノキの古木」がある。
上から目線で何とか体面を保とうとした上皇であったが、「主上御謀反」として隠岐配流を言い渡された。公権力はどこにあるのか。もはや主客は逆転していたのである。
県指定文化財 三日月のムクノキの古木
指定年月日 昭和61年3月25日
所有者・管理者 三日月部落
このムクノキの古木は、後鳥羽上皇が承久の乱で隠岐に移られたとき、この木に弓をかけて休まれたという伝説があり、『弓の木』と呼ばれている。
元来、ここは荒神社の境内で2本のムクノキが株元で合着して育成したものらしく、明治末頃、風で1本が倒れ、残ったものが現在の1本であるといわれている。
目通り幹回り6.7メートル、根回り8.1メートル、樹高15メートル、推定樹齢約600年の古木で、心材部は腐朽し空洞化しているものの、枝張りや樹勢は良好である。佐用郡内でも有数の大木で、『三日月の大ムク』に次ぐものとなっている。
平成5年11月 兵庫県教育委員会
樹齢600年なら足利義満の時代だから、後鳥羽伝説は成り立たないことになる。ここでは、史実とは異なる伝説が生じた背景を探ってみたい。すぐ近くの国道179号は旧出雲街道だから、ここを後鳥羽上皇が隠岐へと下ったとも考えられる。『承久軍物語』巻第六には、播磨から美作を経て伯耆へと向かう上皇の道行きが描かれている。
はりまのくにをもすぎさせ給ふ時、こゝはいづくぞと御たづねありければ、あかしのうらとこたへ申ければ、
都をばくらやみにこそ出しかど月はあかしのうらに来にけり
しらびやうしかめぎく、御ともに侍しが、
月影はさこそあかしのうらなれど雲井の秋ぞなをも恋しき
みまさかとはうきとのさかひなる中山をこえさせ給ふ時、むかふのきしにほそきみちあり。いづくへかよふ道ぞと、御たづねありければ、都へかよふふるき道にて侍ると申ければ、
都人たれふみそめてかよひけんむかふのみちのなつかしきかな
明石の次は美作伯耆国境へと飛んでいる。この間の詳細はまったく分からない。これは『承久記』諸本いずれも同じだ。以前の記事「嗚呼、承久の乱800年!」で紹介したように、播磨から備前を経由して美作に入ったのなら、本日紹介している「弓の木」沿いのルートは通過していないことになる。
もちろん佐用郡の人々は出雲街道を下ったと信じているから、浜田洋『増補改訂 佐用の史跡と伝説』で次のように紹介している。
遠い遠い七百余年もの昔、承久三年(一二二一)三月、北条氏を討とうと計られた後鳥羽上皇が、事志とちがって、北条氏のために、隠岐に流され給うたときのおん道すじで、ここからわずか東の相坂を越えられて
立ち帰り越へ行く関と思ははや 都にききし逢坂の山
と詠まれたと伝えられ、この椋の木に弓をかけてお休みになられたところから、この木を弓の木と呼び、地名も弓の木と呼ぶようになったという。
相坂(あいさか)峠は、国道を上り方面に少し進んで、たつの市新宮町に入った地点にある。この峠で逢坂を思い出して詠んだ「立ち帰り…」の歌は、『承久記』に収められていてもよさそうだが、まったくない。よく調べると『増鏡』に次のように掲載されていた。
久米のさら山といふ所越えさせ給ふとて
きゝおきしくめのさら山越えゆかん 道とはかねて思ひやはせし
逢坂といふは、東路ならでもありけりときこしめして、
たちかへりこえゆく関とおもはばや みやこにきゝしあふさかの山
三日月の中山にて、昔後鳥羽院の仰せられけんこと、思しいづるさへ、げにうかりけるためしなり。
伝へきくむかしがたりぞうかりける その名ふりぬる三日月の森
これは後醍醐帝の隠岐配流の道行きである。美作国内の出雲街道を通過する場面であることは明らかで、帝が「西国にもあるのか」と驚いた逢坂は、現在の真庭市草加部と同市神の境にある相坂峠である。(『校正 作陽誌』真島郡山川部「相坂」の項による)
このように「弓の木」が後鳥羽上皇ゆかりである根拠は、極めて薄弱と言わざるを得ない。児島高徳が後醍醐帝を山陽道の船坂山で待ち構えていたのは、後鳥羽上皇の先例があったからに他ならない。上皇は播磨の出雲街道を通過していないのである。
それでも佐用の人々が後鳥羽上皇を地元に引き寄せたのは、歌道にも武芸にも通じた偉大な帝王への敬慕からであろう。配流の身ながら「我こそは新島守よ」と強がり、一たび去って復た還ることのなかった帝王へのせめてもの供養。それが、弓の木伝説だったのだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。