武田氏と言えば信玄と勝頼。大河『どうする家康』では阿部寛さんと眞栄田郷敦さんが演じている。山梨県に足を踏み入れたことがないので、信玄父子の史跡を紹介することはできない。それでも以前の記事「旗本になった武田氏」で、信玄の弟信実の後裔を紹介したことがある。
武田氏は信玄以外にも戦国武将を各地で輩出している。安芸武田氏の武田元繁。尼子氏と結んで勢力拡大に努めたが、西の桶狭間で毛利元就に倒された。若狭武田氏の武田元光。中央政治にも介入し、将軍義晴を奉じて戦ったが敗れた。本日は因幡に勢力を築いた武田氏の話をしよう。
鳥取市河原町佐貫の大義寺の椿の木の下に「武田高信の墓」がある。
因幡武田氏は守護家山名氏の配下にあったが、鳥取城を手に入れてからは山名氏をしのぐ勢力を誇った。高信は毛利氏と結んで各地を転戦したが、天正元年(1573)に尼子再興軍と山名豊国に敗れ、鳥取城を失った。
鳥取市指定文化財(史跡)
指定 昭和五十五年十月一日
所在地 鳥取市河原町佐貫二二二番地
武田高信の墓
戦国時代の雄将、武田三河守高信は天正六年(一五七八)八月十七日ここ大義寺で山名豊国によって謀殺された。享年五十歳余であった。
中央の宝篋印塔が高信の墓で、共に死んだ家来の墓が両側にある。大義寺に「開基大義院殿従三位参議良嶽英将大居士」の法名がある。
鳥取市教育委員会
高信の謀殺については、『因幡民談記』巻之第四「豊国方便被誅武田高信事」に記されている。因幡に勢力を拡大しようとする美作の草刈氏を討つため、山名豊国は大義寺を本陣として兵を構えた。そして、武田高信には「人数を召連れ合力せられ、此処に出合い、軍の掟をも相談し玉へ」と伝えた。この言葉を信じて大義寺にやってきた高信を、豊国の郎党が襲うのである。
高信は森下出羽守の手の者にて岸田豊後と云ふ者組留て討にける、其比高信は五十有余歳なりけるとかや、高信当国一州の内に於ては草も木もなびきて、鬼神の如く云はれしかども、一朝豊国の方便に依り、やみ/\討ち亡されたるは悪逆の報ひにて実に天命とこそは言ふべけれ、
ここに高信の評価が記されている。因幡では一時期、草木もなびくほどの勢いがあり、鬼神との評判があるくらいだったが、わけもなく討たれるとは主家山名氏をないがしろにした報いだ、と突き放されている。没年は天正六年(1578)とされるが、実際には天正四年(1576)のことだという。
鳥取城主として因幡一国を牛耳るまでに至りながら、儚く斃されてしまった武田高信。鬼神と呼ばれ、その死が悪逆の報いと評されるのも、下剋上を成した者だけに与えられる勲章であろう。さすがは武田一族、逸材には事欠かない。
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