我が家の壁はかつて、藁混じりの土壁だった。古めかくして『三匹の子ぶた』の藁の家かのように情けなく思っていたが、調湿、断熱、防火に優れた職人技の壁だったと気付いたのは最近である。
本日紹介するのは、千数百年を経てもなお美しい石の壁である。こうもり塚や牟佐大塚などの吉備の巨石墳なら知っていたが、さすが当時の先進地、九州北部の古墳は繊細で現代建築かのようだ。
福岡市西区周船寺(すせんじ)に国指定史跡の「丸隈山古墳」がある。横穴式石室としては、かなり早い段階のものだ。
全長84.6mの前方後円墳とのことだが、丘の上の公園としか思えない。説明板には、次のように記されている。
国指定史跡 丸隈山古墳 昭和3年2月7日
江戸時代の初めに発見されたこの古墳は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、後円部が三段に、前方部が二段(一部は三段)につくられ、各段の斜面に葺石を敷き、テラス部に埴輪をたてならべています。埴輪には円筒のほか朝顔形・盾・水鳥などの形象埴輪があります。
後円部の中央には、初期の横穴式石室があり、石室の中に中央の壁を共有する二基並列の組合式箱式石棺があります。その中には男性人骨と鏡二面(仿製二神二獣鏡と仿製六獣鏡)、巴形銅器、玉類(勾玉・管玉・小玉)、刀、剣、鉄鏃の副葬品が残っていたことから、この地域を代表する首長の墓と思われます。
昭和62年3月 福岡市教育委員会
江戸時代の初めに見つかったのだという。『糸島郡誌』周船寺村第十章史蹟名勝「丸隈山古墳」の項では、次のように紹介されている。
続風土記に云く、寛永六年(紀元二二八九年)四月十一日村民新蔵と云し者、村の南道路の上なる丸隈山と云所に石棺有由夢に見て、八月廿一日より堀懸り同廿七日に掘出せり。石棺長七尺横五尺。其内に隔有て石の枕有。髑髏両方に二有、一は女人の首と見へて手に触れし時くだけぬ。一は大なる髑髏にて今猶存せり。
この髑髏が説明文中の男性人骨である。鏡二面は仿製つまり中国製の模倣であるが、たいへん質の高いものだそうだ。割石を丁寧に積んだ横穴式石室や夫婦墓のような組合式箱式石棺は大陸系の新しい墓制であり、被葬者が最先端の技術を積極的に導入していたことが分かる。石棺の石材は松浦砂岩である。
築造年代の5世紀前半は対外進出の時代で、対高句麗戦に始まり、倭の五王が中国江南の王朝と交渉していた。丸隈山古墳の被葬者に朝鮮半島と深いつながりがあったとしても不思議ではない。私たちは、墓制だけでなく様々な文化や技術を、朝鮮半島、中国大陸から学んできた。グローバル社会は想像以上に進んでいたのかもしれない。
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