最近の墓にはスタイリッシュなデザイン墓があり、中にはグッドデザイン賞を受賞したものもあると聞く。形あるものには流行があるが、現在一般的なお墓の形は江戸時代後期に普及した。それ以前は五輪塔が多かったようだ。
古墳時代はその名のとおりお墓の時代であった。全国的に似た形のお墓が出現するから、墓制と権力は密接に結びついていたのだろう。その前の弥生時代のお墓については「前方後円墳まであと少し」などで墳丘墓を紹介した。本日はさらに遡って九州北部に特徴的な支石墓を取り上げよう。
糸島市志登(しと)に国指定史跡の「志登支石墓群」がある。遠くの山の稜線は糸島富士(筑紫富士)の可也(かや)山である。
支石墓を見るのは初めてだ。ヨーロッパのドルメンのような石の構築物があるのかと思ったら、そうではなかった。地表にいくつかの平らな岩がある。これが上石で蓋の役割をしている。その下にはどうやら、上石を支える支石があるらしい。説明板を読んでみよう。
志登支石墓群は、弥生時代早期から中期にかけてのお墓です。戦後間もない昭和28(1953)年に文化財保護委員会によって調査され、全国の考古学者の注目を集めました。発掘調査の結果、弥生時代早期から中期にかけての支石墓10基、甕棺墓8基、平安時代の溝1条などが発見されました。支石墓10基の内、第3・6・7・8号の4基が詳しい調査の対象となり、上石をはずして下部構造まで確認されました。上石の下には、人頭大の支石や石敷き、石囲いなどがあり、第6号支石墓からは打製石鏃が、第7号支石墓からは柳葉形磨製石鏃が出土しました。これらの石鏃は死者に供えた副葬品と考えられていますが、支石墓から副葬品が出土するのは珍しく、貴重な資料といえます。加えて、柳葉形磨製石鏃は朝鮮半島で出土するものと良く形が似ており、支石墓と一緒にこの地に伝来してきたことがわかります。志登支石墓群は、大陸朝鮮半島からもたらされた弥生文化のはじまりを知る上で重要な遺跡といえます。
東風校区まちづくり推進委員会 協力:糸島市教育委員会文化課
可也山の向こうには玄界灘があり、その先には朝鮮半島がある。「かや」は伽耶に関係するのだろうか。いずれにしても、この地が朝鮮半島の強い影響を受けた地域、同じ文化圏に属する地域だったことが分かる。
我が国の支石墓の分布は九州北西部に限られており、稲作のように東へと伝播しなかった。おそらくは必要性の違いだろう。腹が減っては戦ができぬが、お墓はなくとも死ぬ時には死ぬ。
我が国の黎明期。まだ統一的な文化圏は形成されていなかった。九州北部と朝鮮半島南部には、一括りにできるような文化圏があったのだろう。現代でもK-POPとJ-POPで同じような曲が流行っている。一時期冷え切った日韓関係は、尹大統領になってから改善に向かっている。支石墓を前に今こそ、日韓の連帯を叫ぼうではないか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。