幕末の万葉歌人、平賀元義の歌は現代人の心を動かし、その足跡を訪ねる人も多い。元義はもと平尾氏で、33歳のとき本姓である平賀氏を称した。その平尾氏は戦国時代に備前国仁堀荘で勢力を有していたという。本日はゆかりの山城を訪ねることにしよう。
赤磐市仁堀中に「明田(みょうだ)城跡」がある。
主郭には「原備中守戦没之墟」と刻まれた石碑が建つ。この原氏と彼が討死した戦いについては詳らかでない。確かなのは『吉備温故秘録』巻之三十七(城趾上)の情報だ。
古城山 仁堀村南に有。
平尾源五といふ者、居城すといひ伝ふ。
ところが、この平尾氏、浦上宗景に所領を没収されてしまったようだ。『吉備温故秘録』巻之四十八(古簡五民家上)に、次のように記載されている。
仁堀庄之内平尾源五郎分事、令扶持訖然上者、弥可抽奉公忠者也、仍状如件。
天文二十二、二月八日 宗景(花押)
花房次郎四郎殿
天文二十二年(1553)頃は、尼子氏の支援を受ける浦上政宗とこれに対抗する弟の宗景が激しく争っていた。平尾氏は尼子晴久・浦上政宗のラインを有利と見たのだろう。なにしろ晴久は前年、山陰山陽八か国の太守となっていたのだから。先を見通すことは本当に難しい。
明田城は小さいながらも、多重堀切で防御しているのが特徴だ。上の写真は主郭とその北西にある郭を隔てる二重堀切である。
主郭の東に続く尾根には四重堀切を施している。城の北には国道484号が通過しているが、これは備作国境の二つの主邑、旭川沿いの福渡、吉井川沿いの周匝を結ぶ重要なルートである。
尼子氏が浦上宗景の三石城を攻めるとすれば、福渡から周匝方面に進軍する可能性は十分ある。この懸念を解消しておくために、明田城の平尾氏は取り除かれたのであろう。それは、リスクマネジメントのお手本ともいうべき果断な処置であった。
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