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文化財の所有者が移転することはよくある。岡山県が購入した「赤韋威鎧」は6億円。もとは新補地頭として備中に入った赤木家に伝来した。瀬戸内市が購入した「山鳥毛」は5億円。上杉謙信が所有し米沢上杉家に伝来した。ゆかりの地を離れても大切に保存されることに意味がある。所有者を越えて公的な価値があるのだから。
玉野市八浜町八浜に「金剛寺客殿」がある。
唐破風の屋根が格式の高さを物語っているように見える。玉野市教育委員会の説明板には、次のような一節がある。
本堂の北にある客殿は、児島湾の中にある高島の松林寺客殿を明治になって移築したもので、岡山藩主が度々遊びに来ていたという言い伝えがある。
なんと、この客殿は児島湾の無人島、高島にあったという。
神武天皇の行宮があったとして有名だが、実際のVIPは池田の殿様だったのだ。高島は岡山市内だから、もしやと思い『岡山市史』宗教教育編を紐解いてみた。
岡山市南区宮浦にある松林寺は明治40年に高島から現在地に移転した。同市史「松林寺」の項には「高島時代の松林寺」として、高島に住む方の貴重な証言が掲載されている。市史は昭和43年発行で、その頃は人が住んでいたようだ。
藩政時代からこの島に住む旧藩士の嵐家は今も老夫婦が残って島の生活を続けているが、明治九年生れの当主基一郎翁の思い出話の一節に、
『わたしの父からよく聞かされておったが、高島へは池田の殿様がよく遊山に来られたもので、松林寺が殿様のご座所になった。岡山から十三丁櫓の早船に乗っておいでになり、松林寺前の浜のお船入りに船を着けて浜へあがられた。殿様用のお成門は現在吉備高島宮顕彰碑の立っておる附近にあって、この門から入るとすぐに客殿にお通りになり、松林寺の和尚のおもてなしをうけておくつろぎになった、そこで客殿には玄関式台がついており、上段の間もあった。本堂や客殿だけでなく、六戸前の蔵が立っておって、寺領の年貢米がどっさりはいって来たらしい。ところが檀家の無い寺じゃから明治になって、藩の保護を受けぬようになるといっぺんに困ってしまい、住職はあわてゝ事業に手を出したが失敗ばかり重ねて、借金の穴埋めに客殿まで売りとばす始末、八濱(玉野市)の金剛寺の客殿があれが松林寺から移した建物じゃ。』
この客殿が移されたのは明治11年。金剛寺の檀家総代を務めていた田井の上杉密蔵という篤志家が松林寺から譲り受けて寄進したという。明治維新はお寺にとっては受難の時代だった。
藩の保護がなくなり、廃仏の風潮も広がっていた。殿様の遊山ではなく庶民が参詣するお寺ならまだましだったかもしれない。移転した客殿をとおして、明治初期の宗教史が垣間見える。
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