今年4月、台湾の蔡英文総統とアメリカのマッカーシー下院議長が会談すると、中国は台湾周辺で軍事演習を行って台湾に圧力をかけた。制海権、制空権に加えて制情報権を奪取する能力を検証したのだという。おたくは袋の鼠ですよ、と台湾に言いたいのだろう。
西日本の戦国史においては、制海権を掌握することに大きな意味があった。瀬戸内海を制する者は天下を制す。本日は要衝として争奪戦が繰り広げられた城を訪ねることにしよう。
倉敷市児島塩生に「本太城主之碑」がある。揮毫は衆議院議員の星島二郎である。
城跡を示す碑ではなく、城主を顕彰した碑のようだ。城主とは誰なのか。裏面に次のように刻まれている。
本太城主能勢修理公南朝之忠臣多田入道頼定末葉也元亀二年二月於当初与日比四宮隠岐守讃岐香西駿河入道宗心合戦大勝修理公勇名轟天下没後葬此地末裔在此地
昭和十二年春再建
城主の名は能勢修理。名門摂津源氏で南朝忠臣として知られる多田頼貞の子孫だという。元亀二年(1571)に日比の四宮氏と讃岐の香西氏の連合軍と戦って大勝したのだという。
本太城主之碑の向かい側に「鎮魂之碑」がある。顕彰碑ではなく慰霊碑である。時代によって建碑の目的が異なる。第二次大戦の経験が人を謙虚にさせたのだろう。
碑建立之趣旨
元亀二年(一五七一)と天正年間に本太城主能勢修理一族相手方讃岐国香西駿河入道宗心一族と備前国日比村に住む四宮隠岐守宗清一族が結託して二度対戦し多くの尊い生命が山野に散って四百三十年余の歳月が経過した。今ここに地元民の発意により二度の合戦に参加した多くの兵士の御霊を碑に祀り逸早い昇魂を祈念する。
平成十五年吉日
鎮魂之碑建設委員会
元亀二年と天正年間、本太城主能勢修理と香西四宮連合軍が二度対戦したという。能勢修理については「清和源氏、嫡流の行方」で紹介したように、本太城主ではなさそうだ。一次史料を根拠とした本太城合戦の経過を同記事から再掲しよう。
本太城を舞台にした合戦は二度あった。第一次合戦は永禄11年(1568)のこと。毛利氏配下の能島村上氏の勢力下にあった本太城には、嶋吉利が城主として守備していた。瀬戸内の海上支配をねらう三好氏配下の香西氏の攻撃があったが、これを撃退する。大きくは毛利氏の勢力下にあったのである。
第二次合戦は元亀2年(1571)のこと。本太城を村上水軍の嶋吉利が守っているのは変わらないが、対立の構図は大きく変化していた。大友氏が毛利氏包囲網(尼子氏、浦上氏、三好氏)を築くことに成功し、能島村上氏もこれに呼応していた。この状況を打破すべく、小早川隆景を主将とする毛利勢が本太城を奪取したのである。
児島周辺の制海権を毛利勢と浦上・三好勢が争っていたが、最終的には毛利勢の手に落ちたようだ。毛利氏は東部進出の足掛かりを得たことになる。その本太城を探訪しよう。
倉敷市児島塩生に「本太城跡」がある。城に至る遊歩道は整備されたが、城内は藪化して思うように歩くことができない。
それでも細い踏跡をたどると、見どころは押さえることができる。上の写真は主郭の南面の石垣である。
主郭の西面にも石垣がある。ただし、これらの石垣は戦国時代当時のものでない可能性もあるという。
さらに奥へと進んでいくと、半島を断ち切るような凹地に行き着く。外側には竪堀が施されており、両端は土橋でつながっているのみである。巨大な堀切と考えてよさそうだ。この先にも大きな曲輪があるようだが、藪化して進めない。
引き返しながら南の斜面をよく見ると、井戸が穿たれていることが分かる。ただし、これも後世のものの可能性があるとのこと。
主郭の隅に一段高い櫓台がある。窪地になっているのは、戦時中に高射砲の陣地とされたからだという。
本太城には二度の大きな戦いがあり、守備側の1勝1敗であった。勝利したのはどちらも毛利勢。かなり堅固な城砦に見受けられるが、いったいどこから攻撃して、どのように守ったのか。
落葉を踏みしめながら歩けば、ウグイスの鳴き声が合の手を入れる。コンビナートの重低音のみがいにしえと異なり、三好や毛利の水軍の代わりに工場群が押し寄せている。袋の鼠のような城跡だが、周囲にはかろうじて海が残り、半島の地形を保っていることが古城を偲ぶよすがとなっている。