二十年以上前になるか、かなり昔に宮崎を旅した折、石井十次の資料館があるというので石井記念友愛社を訪ねた。おそるおそる事務室に声を掛け、岡山から来た旨を伝えると、わざわざ理事長さんが出てきてくださり、大変恐縮したことを覚えている。その節は本当にありがとうございました。
岡山市東区上阿知に「岡山孤児院発祥の地」がある。道は牛窓往来、建物は大師堂である。
岡山孤児院は児童福祉施設のさきがけであり、その規模の大きさ、高邁な理念から、明治後期には広く知られた存在であった。濃尾地震や東北地方の大凶作にに伴う被災児を引き取り、明治39年には1200名に達したという。
その孤児院の第一歩となった場所がこの地である。軒下の説明板を読んでみよう。
岡山市指定史跡 岡山孤児院発祥の地
石井十次(一八六五~一九一四)は宮崎県で生れましたが、救民の立場から医学を志し、明治十五年、岡山甲種医学校に入学し、またキリスト教徒となりました。
明治二十年四月一日、転地療養を兼ね、この大師堂の東隣に居を構え、「太田診療所」として医師の代診に当たりました。
たまたま同年四月二十日、備後からきたお遍路の一行(二人の子供を連れた寡婦)が、大師堂に泊まりました。途方に暮れていた一行を見かね、彼はそのうちの男子一人を引き取りました。この事が、貧窮児や孤児に対する彼の救済事業の記念すべき第一歩となったのです。この地では、さらに二人の子供を引き取りました。
岡山に帰った彼は、さっそく門田屋敷の三友寺に孤児教育会(岡山孤児院)を創設し、三十年には院内に岡山孤児尋常高等小学校を設立しました。そして全国規模で孤児収容を行い、一時その数は千二百人を越えました。
実践的な職業訓練や、満腹主義・家族主義などを取り入れた養護を行い、国内はもとより広く世界にも紹介されました。
昭和三十六年(一九六一)年五月二十二日、孤児院発祥の地として、岡山市の史跡に指定されました。
平成十三年三月 岡山市教育委員会
児童福祉の父石井十次は日向高鍋の出身。宮崎の荻原百々平(おぎわらどどへい)医師の勧めで医学を学ぶことを決意し、夫婦で岡山に旅立った。岡山県医学校は医師養成機関として西日本最高峰と見られていたようだ。
ところが十次は卒業試験に失敗。そのころ十次には同じくキリスト教を信じる太田修という友人がいた。鬱々としていた十次は、太田が医師をしている父(太田杏三)のもとで療養するよう勧めるのに従い、邑久郡太伯村に移った。
そのころ隣村(大宮村)の有力者平島恒五郎は、村に医者がおらす困っており、太田先生にお医者をよこしてもらえないかと相談をもちかけた。そこで、先生は十次に代診として行ってほしいと頼んだ。こうして十次夫妻は大宮村に行き、平島恒五郎宅の離れに「上阿知診療所」を開設したのである。
大師堂の東隣、平島恒五郎の屋敷地跡に「岡山孤児院発祥地碑」がある。題額には「永懐斯人」と刻まれているが、これは「永くこの人を思う」という意味である。碑文を読んでみよう。
岡山孤児院発祥地碑
頃者岡山孤児院創立三十年ヲ機トシ地ヲ同院ノ発祥タル岡山県邑久郡大宮村大字上阿知大師堂ノ側ニ相シ碑ヲ建テ之ヲ不朽ニ伝ヘント欲シ文ヲ予ニ嘱ス予聞ク明治十五年石井十次君日向ヲ出テ岡山医学校ニ入リ留マルコト六年在学中脳ヲ病ミ二十年四月実地医術ヲ研究センカ為ニ岡山ヲ去リテ上阿知太田氏ノ診察所ニ寓ス其寓ニ鄰接シテ大師堂アリ君毎朝起テ堂外ニ徜徉シ可憐ナル巡礼者ヲ見ルヲ唯一ノ楽トナス一日前原つね母子三人ヲ見テ其ノ惨状ヲ聴キ深ク之ヲ憫ミ直ニ長男定一ヲ養ヒ之ヲ救済セリ実ニ是ヲ君カ身ヲ孤児救済ニ献シタルノ始ト為ス君ヤ天成ノ好男子也君ノ慈眼愛腸ハ遂ニ君ヲシテ岡山孤児院ヲ産生スルヲ禁スル能ハサラシメ而シテ君ノ堅志恒行ハ遂ニ之ヲ以テ其ノ一生ヲ始終セシメタリ君ノ如クニシテ生キ君ノ如クニシテ勤メ君ノ如クニシテ逝ク人生ノ生活ノ意義始メテ全キニ庶幾シ予君ト相識ル一日ニアラス碑文ノ嘱誼辞ス可カラサル者アリ因テ其梗概ヲ記シ後人ヲシテ岡山孤児院ノ起原ヲ知ラシメ併セテ君ノ風ヲ聞キテ興ツ所アラシム
大正六年四月
蘇峰 徳富猪一郎撰幷題額
昕江 入澤 賢治書
十次が孤児救済の道を歩み始めるきっかけとなったのが前原つね母子三人で、最初に預かった子どもが定一だったことが分かる。成長した定一は、馬毛島の牧場で働いたり私立養忠学校(後の岡山県立金川高等学校)で学んだりして、最後は朝鮮に渡りそこで亡くなったらしい。十次としても茶臼原の本格的な開拓以前は、朝鮮への移民事業を模索していた。
撰文ならびに題額は知の巨人徳富蘇峰である。蘇峰は平民主義から国家主義への変節だとかA級戦犯だとか、今日的な評価は芳しくないが、慈善事業への関心は高かった。石井十次や大原孫三郎らとともに納まる写真(明治36年)もネット上(ジャパンアーカイブズ)で見ることができる。大正3年に十次が亡くなり、同6年に岡山孤児院創立30年を迎えたのを機に、蘇峰が十次を偲んで書いてくれたのだろう。
十次は孤児院の運営方針として家族主義を第一に掲げた。家族は愛情で結びついており、子どもの成長に欠かすことができない。一億総中流と言われて久しいが、様々な家庭環境が存在するのも事実で、虐待のニュースもよく聞こえてくる。明治から変わらず重要な児童福祉の原点を、ここに見ることができる。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。