慶尚道者。日本国安芸宰相奉勅命令世治也。自今日可守其旨事。
慶尚道は日本国の毛利輝元が勅命により治めることとなった。今後そのことをよく理解しておくように。文禄の役において毛利輝元の代官宍戸元続が現地で出した禁制である。書いたのは小早川隆景に従って渡韓していた嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)という僧侶である。
「洞春寺開山嘯岳鼎虎禅師手沢本」という山口県指定文化財(典籍)がある。朝鮮の古い書物が多く含まれているが、これは禅師が渡韓した際に持ち帰ったものだという。貴重な文献を後世に伝えるべく、平成になって経年の傷みが修復された。
対馬の仏像(県重文「観世音菩薩坐像」)が盗難に遭い韓国で発見されたはいいが、数百年前にうちの寺から倭寇が略奪したものだ、と主張して返そうとしないという事件がある。
我が国には「所有権の取得時効」という民法の規定があり、「20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。」と定められている。(162条第1項)
所有者が変わった経緯には良し悪しがあるだろう。だが、それこそ数百年間大切に保管し、文化財指定により価値を明らかにして20年以上経過している。価値あるものが外国人に所有される複雑な気持ちは理解できるが、まずは日本側に所有権があることを確認すべきだ。
安芸高田市吉田町吉田の郡山城内に「嘯岳禅師(しょうがくぜんじ)の墓」がある。毛利元就の墓も近くにある。
毛利元就の菩提寺洞春寺は現在山口にあるが、その前は萩、その前は広島、その前はここ吉田と、毛利氏の歴史とともに移転を重ねた。その開山が嘯岳鼎虎禅師である。説明板を読んでみよう。
嘯岳禅師の墓
嘯岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡り修業を積み、永禄三年(一五六〇)帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、そして南禅寺などを歴任した。
元就は使を出し、禅師を竹原妙法寺からしばしば吉田に招きいれた。元就の逝去に際して、禅師は葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなった。
慶長四年(一五九九)一〇月五日没。この墓は天明八年(一七八八)山口洞春寺により建立した。
平成二年三月 吉田町教育委員会
江戸時代中期に相応しい様式の宝篋印塔である。中世には立っていた隅飾が外へ反り返っている。説明板によれば嘯岳鼎虎は元就の師として招かれた高僧であるが、文禄・慶長の役では国外事情や文書作成に通じた外交僧としても活躍した。
同様な外交僧には、大内義隆により遣明船の正使として派遣された湖心碩鼎(こしんせきてい)、鍋島直茂軍に従って朝鮮に渡った是琢明琳(ぜたくみんりん)、宗氏とともに日朝友好に尽力した景轍玄蘇(けいてつげんそ)、秀吉や家康に外交顧問として重用された西笑承兌(さいしょうしょうたい)がいる。
これらの僧侶の一群は臨済宗幻住派と呼ばれ、戦国期の日本外交に大きな役割を果たした。嘯岳鼎虎禅師もその一人であり、毛利氏の海外遠征は禅師のような知恵袋あってこそ成しえたと言えよう。
朝鮮出兵は我が国にとって負の歴史に他ならない。しかし、これを直視ぜずして真の日韓友好は成就できない。毛利氏は秀吉の命に従っただけかもしれないが、どのように加担したのかは、国内戦と同様に明らかにするのが望ましい。稀代の英雄として人気の秀吉の責任はとりわけ重大で、現代ならプーチン大統領と同じく国際刑事裁判所から戦争犯罪容疑で逮捕状が出されることだろう。
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