一国を牛耳りながらも志半ばにして滅んだ備中三村氏については以前の記事「生き残れなかった戦国大名」で紹介した。武士の名字は地名に由来することが多いが、「三村」はどこにあるのだろうか。
井原市美星町星田の城山に「金黒山(かなくろやま)城跡」がある。主郭の土塁とその向こうにある堀切である。
遺構の保存状態がよいので市の史跡に指定されている。南に向かって舌状に張り出した丘陵は、山城には最適の地形である。三村氏の本拠地成羽へ近付こうとする敵を押さえる城であろう。説明板を読んでみよう。
井原市指定史跡
金黒山城跡
標高三七〇mの南にのびる丘陵に位置する。主郭を中心に四つの郭からなり、主郭の周囲には土塁、井戸などの遺構や主郭の北側には三段からなる堀切が残っている。天正二年(一五七四)、この地域を治めていた城主三村為親(ためちか)の時、毛利方の小早川勢の侵攻により落城したといわれている。
指定年月日 平成十七年三月十六日
井原市教育委員会
天正二年(1574)は毛利氏が三村氏の宿敵宇喜多氏と結び、反発した三村氏が毛利氏を離れ、備中全土が戦乱状態になった年である。ここでは、落城時の城主は三村為親であることが分かった。いっぽう小田郡教育会『小田郡地誌』(明治26)には、次のように記されている。
金黒山城は堺村大字星田の中央にあり天正三年信州の人三村能実九代の孫貞親の城(きず)きし所なり云ふ
天正二年に落城した金黒山城が、天正三年に築かれたというズレが生じている。為親と貞親の関係は不明で、有名な家親・元親父子との系譜もよく分からない。家親の8代前が能実だから、為親も貞親も同時代の一門衆と見てよいだろう。
井原市美星町星田(蔵光)に市指定史跡の「三村氏屋敷跡・土塁遺構」がある。金黒山城と同じく平成17年の指定である。
民家前の道端に史跡の説明板があるから、かろうじてその存在が分かる。読んでみよう。
三村氏屋敷跡・土塁遺構
東西に延びた台地の南に、南北五〇メートル、東西三〇メートルばかりの平坦な低い台地状の畑地がある。ここを城の内と呼んでいる。その東端に土塁が三六メートルばかり南北方向に残っている。土塁の東側は一段低い平坦な段となり、南側にも同じような段がみえる。西側の一段低くなった所は堀の内と呼ばれている。北側の台地上や東側の墓地に残る粒状石灰岩(こごめ石)の五輪塔部材は、中世の墓地が付近にあったことを知らせ、その中に見られる大ぶりのものは、地方有力者のものと思われる。
地理院地図を見ると、ちょっとした舌状台地になっていることが分かる。写真は「城の内」東端の土塁で、その東側は竹藪になっているが、確かに一段低くなっている。
ここには三村氏最初の屋敷があったと伝えられ、その備中三村氏の初代が能実だという。その来歴を『高梁市史』が簡潔にまとめているので引用しておこう。
もともと三村氏は清和源氏新羅三郎義光を遠祖とし、小笠原の姓を名乗っていたが、一三世小三郎長時のとき、常陸国筑波郡三村郷に住んで三村姓を名乗り、新左衛門親時の時、信州挾江(さばえ)に移り、その後元弘の初め、三村孫二郎能実の時から備中国小田郡星田村、今の美星町に移り住み、建武二年八月十一日足利左馬頭直義の命によってこの地を知行し、地頭職となったものらしい。
毛利氏もそうだが、東国にルーツを持つ武家が、西日本で活躍することはよくある。やがて三村氏は、成羽や松山に進出し、常山城から楪城まで南北広範囲を支配下に収める。その初めの一歩がこの小さな舌状台地であったかと思うと感慨深い。
今回は美星町星田にある三村氏ゆかりの地を訪ねた。星田という美しい地名が、彼方で輝く三村氏の栄光と重なって見える。星田は古文書に「干田」との表記が見られるように、水の確保には苦労があったようだ。星田川から成羽川、そして高梁川へと進出した三村氏。水の大切さを痛感していたのだろうか。
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