知の巨人徳富蘇峰は、明治半ばに平民主義から帝国主義へと軸足を移した。その記念碑的一文が昭和十年の『蘇峰自伝』に記されている。
此の遼東還附が、予の殆ど一生に於ける運命を支配したと云つても差支へあるまい。此事を聞いて以来、予は精神的に殆ど別人になつた。而してこれと云ふも畢竟すれば、力が足らぬ故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至つた。
そこで予は一刻も他国に返還したる土地に居るを屑(いさぎよ)しとせず、最近の御用船を見附けて帰へる事とした。而して土産には旅順口の波打際から、小石や砂利を一握り手巾(ハンカチ)に包んで持ち帰つた。せめてこれが一度は日本の領土となつた記念として。
甲子園球児よろしく「土」を持ち帰ったのだという。力を信奉する帝国主義者のセンチメンタリズムはさておき、この文から亜細亜の共存共栄を図る興亜論はみじんも感じられない。中国とどのような関係を築こうとしたのか。
今、福島第一原発の処理水海洋放出について中国が猛反発しており、中国人が北京の日本大使館にレンガ破片を投げ込んだことについても、「日本政府が核汚染水の放出を一方的に強行したことが根本的な原因だ」と日本側に責任を転嫁する始末だ。
この国とどのような関係を築けばよいのか。漢文の素養がある蘇峰には、中国文化に対するリスペクトがあったという。私たちはどうか。暴支膺懲を言い出しては同じ轍を踏むだけだろう。ここは遼東還附の時と同じように、臥薪嘗胆なのかもしれない。
赤穂市坂越(さこし)に「山崎善吾君像」がある。「蘇叟九十五」とあるから、徳富蘇峰95歳の揮毫だろう。
知の巨人は長命であった。明治前半期に論壇にデビューした蘇峰は、大正、戦前、戦中を経て戦後の昭和32年11月2日に亡くなった。享年95。最晩年の揮毫である。
そもそも山崎善吾君とは、どのようなお方なのだろう。蘇峰撰文の碑文を読んでみよう。
山崎善吾君は明治十五年播磨国赤穂砂子の素封家山崎善八郎氏の長男として生る資性重厚意志堅確能く人を用ひ熟慮果断事に当って惑はす昭和三年推されて坂越村の村長となるや港湾の埋立荷揚場の拡張紡機製造株式会社(今の大日本紡績坂越工場)の誘致水道の敷設国鉄赤穂線の坂越駅設置運動奏効後用地買収の斡旋県村道の改修役場の移転新築をなし町制を施行せり尚坂越町農業会長赤穂郡町村長会長赤穂郡教育会長等を兼任す終戦後一切の公職を拝辞し悠々自適す坂越の町村長たること実に十有九年地方功労者として褒賞を受くること数次坂越町をして郡内一の富祐町たらしめりた昭和廿二年十二月廿三日急逝す時歳六十又六君逝いて正に十年君か芳躅を慕ふの声欝然として起り郷人胥議し君か生前経営したる築地に銅像を建つ君の功徳や固より大郷人の其の功徳を追慕するや亦嘉す可し予乃郷人の請に応して其の梗概を誌し以て一郷の来者をして矜式する所あらしむ是亦君の志を成す所以ならん夫
昭和卅二年四月八日 蘇峰徳富猪一郎撰 花岳伯仙書
漢文の素養なくして書く能わざる名文である。書は花岳寺住職片山伯仙。昭和9年に操業を始めた紡機製造坂越絹毛工場は坂越絹毛、東亜繊維工業坂越工場、大日本紡績坂越工場、ユニチカ坂越第1工場を経て、現在所在地には赤穂化成があり、繊維メーカーとしてはユニチカ坂越事業所が流れを汲む。戦時中は航空燃料工場に転用されていたらしい。
国鉄赤穂線は昭和26年に播州赤穂駅まで開通。その際、坂越駅も設置された。戦前から計画のあった路線だから、町長としても駅設置に力が入ったことだろう。ただし山崎自身は開通を見ることなく、亡くなってしまった。
坂越の人々と徳富蘇峰にどのようなコネクションがあったのかは知らない。ただ、「実業に従事する民衆に基盤をおく近代化」『山川日本史小辞典』をめざすのが平民主義であり、それを体現したのが山崎町長だったとすれば、氏の功労を称えた蘇峰は平民主義を最期まで貫いていたのかもしれない。
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