戦国時代は領土争い。ロシアとウクライナの戦争もほとんど膠着状態。ここに至っては朝鮮戦争のように「凍結された戦争」になるのでは、と囁かれている。
播磨は赤松氏の領国として揺るがないかと思われたが、嘉吉の乱で但馬の山名氏に奪われてしまう。これを応仁の乱に乗じて再興赤松氏が奪い返すが、時はすでに戦国の世。浦上氏や別所氏が台頭し、山陰の尼子氏までもが進出してきた。やがて西から毛利氏、東から織田氏の勢力が影響力を強めていく。
赤穂市坂越に「坂越浦城跡・御番所跡」がある。
眺めの好い場所で、広がる風景は見れど飽かぬかもである。ここは公園にしか見えないが、城跡なのだという。説明板を読んでみよう。
坂越浦城跡・御番所跡
坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、 室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたと言われています。その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城(かよいじろ)となり、坂越を支配したと言われています。
江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。
赤松村秀は、主家をよく補佐した龍野赤松氏の当主である。孫の広秀については「人間的なあまりに人間的な」で紹介している。龍野城は失ったが天空の城竹田城主として豊臣政権を支えた。
見晴らしは良好だが、難攻不落ではない。平時の監視所くらいが適当だろう。山はまだまだ上へと続いている。頂上にも城があるというから、険しい山道を登ることにしよう。
頂上に「茶臼山城跡」がある。眼下のひょうたん島は、聖地「生島(いきしま、いくしま)」である。
こここそ難攻不落。堅城と呼んで差し支えない。標柱の側面には、次のように記されている。
標高一六六mの宝珠山(茶臼山)にある。山名持豊が駐留したといわれているが、詳細はわからない。
なんとも情報量の少ない説明だが、山名持豊が登場した。応仁の乱の西軍総大将、山名宗全である。宗全は壮年期に嘉吉の乱鎮定でも活躍しており、赤松氏から播磨を奪うという功績を誇る。やがて山名氏は赤松氏の反転攻勢で播磨を追われることになるのだが、一時的にせよ播磨の南端まで支配した証しが、坂越浦城や茶臼山城だといえるだろう。
ウクライナの反転攻勢について、ウクライナ大統領側近は「効果的」と評価し、ロシア国防相は「完全に失敗している」と言う。ということは、やはり膠着状態ということか。山名氏の播磨支配は30年にもならなかったが、ロシアのウクライナ領占領はいつまで続くことになるだろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。