あってはならない事件が続々と耳に飛び込む昨今である。その第一報は近くの人のスマホから入ってくる。自分でもチェックすればよいのだが、他人の話を聞くだけでも概要をつかむことができる。情報伝達速度は事件の「あってはならない度」に比例する。
赤穂市高野と相生市相生との境に「高取峠」がある。相生と赤穂を結ぶ赤穂街道の難所である。国道250号となってからも交通量が多く、トンネルを掘削する構想があるが、近年は盛り上がりを欠いているようだ。
盛り上がったのは「早かご」像である。駕籠を担ぐ人夫は汗だく感がよく出ているが、よく見ると塗装が剥げてボロボロなのだ。繊維強化プラスチック製で平成3年に設置された。
石碑には「高取峠 江戸より百五拾五里」とある。中の人は江戸からやって来たようだ。その目的は?説明板を読んでみよう。
元禄十四年(一七〇一)三月十九日の、午前四時頃、ここ高取峠をエイホ、エイホの声とともに、二挺の早かごが、赤穂城めざして、突っ走っていきました。
これは、江戸城松之廊下で突発した赤穂城主浅野内匠頭の殿中刃傷を知らせる第一の使者早水藤左ェ門・萱野三平の両士の姿でした。
この早かごは、江戸から一五五里(約六〇〇キロメートル)の長途で、昼夜兼行わずか、四日半で江戸の事件を、家老大石内蔵助に知らせ使命を果しました。
(忠臣蔵で名高い、元禄赤穂事件の赤穂でのはじまりは、ここからスタートしたと、言ってもよいでしょう。)
上京中の市長が政府の重役に障害を負わせて逮捕された、という事案になろうか。今なら市役所内で、「あの市長がなぜ?」「これは辞職しかないな。」「市民からクレームがくるぞ。」「また選挙か。おい、準備始めるぞ。」のような会話が交わされるだろう。
これでも重大事件だが、時代は江戸のむかし。不祥事はお殿さま個人の問題ではなく、お家の問題であった。つまり藩という行政組織そのものが存続の危機に立たされるのである。
今なら市役所の職員全員が失職する事態に相当し、事件第一報は察するに余りある衝撃であったに違いない。だからこそ、早水と萱野は急いだのだ。600kmを4日半つまり108時間で走破したとすると、平均時速5.5kmということになる。
萱野の実家は西国街道沿いにあり、今の箕面市萱野三丁目に「萱野三平旧邸長屋門」が残っている。早かごがちょうど実家に差し掛かると、何やら人が集まっている。母の葬儀であった。早水は家に寄るよう勧めたが、萱野は「お家の一大事でございますから」と涙を呑んで通り過ぎたのであった。
よくできた話だが、本当だろうか。「萱野三平墓碑」が萱野五丁目の共同墓地にあり、その傍らに母「小まん」の墓もある。墓石には「釋尼妙貞霊位」の戒名と「元禄十四年三月十七日」の命日が刻まれているそうだ。母の葬儀は亡くなった翌日18日だろうから、19日早暁に高取峠を越えた三平が母の葬儀に遭遇した可能性は高い。
萱野三平については、以前の記事「忠ならんと欲すれば孝ならず」、早水・萱野組の第一報については、「赤穂藩のクライシス・マネジメント」でも解説している。突然降りかかる緊急事態に翻弄されながらも、誠実に対処しようとした人々の行動と心情は、後世の人を惹きつけてやまない。
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