今は面倒になってしまったが、珈琲をサイフォン式で淹れていた頃がある。理科の実験をしているようなワクワク感があった。サイフォンの原理とはこういうことか、と得心していたが、実のところ全く違っていた。
岡山県久米郡久米南町北庄(きたしょう)に「神谷(かまだに)サイフォン」がある。神谷川の底で露出している鉄管の中を、こちらから向こうへと用水が流れる。
ここ北庄には、日本の棚田百選の「北庄の棚田」とため池百選の「神之淵池」がある。今も美しい景観を維持しているのは、先人の努力のおかげである。話は大正13年、今から百年前にさかのぼる。夏の大旱魃を契機に、農業生産基盤の大規模な整備事業が行われることになった。説明板を読んでみよう。
久米南町指定文化財
神谷サイフォン及び隧道
大正13(1924)年に誕生寺耕地整理組合が設立され、道路の拡幅・開設、山野の開墾、田畑・溜め池・水路の新築などの耕地整理が行なわれた結果、耕地面積は倍増し、地区農民は窮状を脱した。実に12年を費やす一大事業であった。
誕生寺耕地整理組合が施工した34箇所、延べ30kmに及ぶサイフォンの中で中心的な役割を果たすのが、足掛け3年を費やし、大正15年に完成した「神谷サイフォン」である。
高さ46m、長さ163.6m、内径30cmの鉄管は尼崎の鋳造所で、また、土管も備前焼きで、いずれも特別注文による本格的なもの。この規模のサイフォンは、当時日本では例を見ないと言われ、国内だけでなく大陸からも視察者や見学者が訪れ、「サイフォンの村」として全国にその名を轟かせたと言う。
神之淵池を出て隧道をくぐり、神谷の斜面を駆け下りた水は、道路と川をくぐって反対側の斜面へ駆け上がる。田植えの時期になると、いまでも水は勢いよく鉄管の中を走っている。
平成17(2005)年11月22日指定
久米南町教育委員会
神之淵池の水を神谷川の右岸から左岸へと引きたい。どのようにして用水を川越えさせるか。この難題を解決したのが逆サイフォンの原理である。説明板の模式図によれば、右岸から川底までの高さは45.75m。左岸はこれより2,12m低い位置にあるため、右岸の水位が左岸よりも上がれば、左岸への水の流れが発生するのである。
誕生寺の土地改良事業が始まって百年。今や食糧増産でも産業振興でもなく、景観維持が目的となっている。画像生成AIの性能は近年急速に向上し、見たいものを望むがままに見ることができるようになった。試みに「美しい棚田 夕焼け」と指示すると、水面に空色が映える見事な夕景が生成された。眼前に広がるリアルな景観か、リアルに見える生成画像か。リアルな景観づくりには、人の作業とサイフォンの水が欠かせない。
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