遠藤周作先生はネスカフェゴールドブレンドのCMに出ていらした。ダバダ~の曲とともに知的に彼方を見遣って、先生はコーヒーを口にしていた。以来、不肖私もコーヒーカップを手にするたびに遠い目をしているが、端からは所在無げに見えていることだろう。
先生の作品のうち、きちんと読んだのは『沈黙』しかないが、途中ページをめくることができないまま、何度も虚空を見つめて考えた。信仰と命と、どちらが重いのか。殉教と棄教と、生き方に価値付けは出来るのか。
その先生の作品に登場する山城があるというので訪ねてみた。まずは城の南側にある登城口の説明板を読んでみよう。
小笹丸城の由来
小笹丸城は、標高390m・比高90mの丘陵に位置し、美星町大字黒忠字笠丸に所在する。戦国期の村落領主クラスの詰めの城であると考えられ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランによって築城されたと考えられる。
城域は、東西に150m、南北に120mを測り、主郭・曲輪・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸などが創出されている。創築年代は不詳であるが、大永年間には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には竹野井常陸守氏高・竹野井又太朗春高が居城したと伝えられる。
主郭からの眺望は、八日市、星田の金黒山城址、川上町の国吉城址、弥高山などまで及び、各城砦や見張り所との連絡は、たとえば狼煙、鏡、釣鐘によって容易であったと推定される。
南側の曲輪には、小説『反逆』のなかで、この小笹丸城を舞台としてとりあげた小説家、遠藤周作氏直筆の石碑が設けられている。
なんと先生直筆の石碑があるという。文学的にも価値ある史跡だ。さっそく坂道を上って城をめざそう。
井原市美星町黒忠(くろただ)に「小笹丸城址」と刻まれた石碑がある。背後の丘が本丸だ。「小笹丸(おざさまる)城跡」として市の史跡に指定されている。
草叢の中に石碑があり、よく見ると、その右側には説明板がある。
中世の山城・小笹丸城址
小笹丸城の遺構は、現在ほぼ完全な状態で保存されている。 頂上の平坦な部分は主郭(江戸時代の用語で本丸)と呼ばれ、城の中心である。城道がとりつく北と、尾根つづきの東側に土塁を備える。
主郭から一段下の曲輪(江戸時代の用語で二の丸、三の丸など)2~6は、次第に下がりながら主郭を一巡する帯曲輪である。曲輪6は、尾根つづき側を防衛する重要な曲輪である。東下にさらに2段の曲輪があり、その直下には堀切りを設け尾根筋を完全に遮断する。曲輪6の北側で土塁がカギの手に曲がる所は、虎口(城の防禦された出入口の門がつくられた場所)で、北側の竪堀に開かれている。
竪堀は、北側斜面を区分し横移動を防ぐ。竪堀底は幅が広い上に、武者隠しによって守られる。こうしたことから、この竪堀は当時小笹丸城への大手道を兼ねていたと考えられる。曲輪7は内部に石積み井戸をもつ重要な場所である。このため両脇に土塁を備える。
小笹丸城は戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573~91年)に降ると考えられる。
小笹丸城縄張り図(作図 千田嘉博)
中世山城の説明板は、設置されていればよいほうで、あったとしても江戸時代の地誌をもとにした説明が中心だ。ところが、小笹丸城跡の説明は城郭の構造を丁寧に解説し、防御の工夫が随所に設けられていることを力説している。縄張図も説明がよく分かるようにリアルに描かれている。
その作図はなんと、城郭研究の第一人者「お城博士」千田嘉博先生ではないか。おそらく解説文も書いてくださったのだろう。説明板の設置は旧美星町時代のようだから、平成17年以前にさかのぼる。先生の貴重な足跡がここにある。本丸に上がってみよう。
社殿の背後に土塁が確認できる。下へ降りて東側へ回ってみよう。
東側の帯曲輪には大きな土塁がある。
北端の曲輪には石組みの井戸がある。さすが千田先生ご推薦の城だけに見応えがある。城主については登城口の説明板に「大永年間には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には竹野井常陸守氏高・竹野井又太朗春高が居城した」とあった。
これに対して江戸中期の地誌『古戦場備中府志』巻之一川上郡六郷には、次のように記されている。
小笹丸城 黒忠村。
当城主、元弘年中竹井掃部左衛門尉広高・同太郎正高。元弘の乱に越後守仲時、江州番馬にて自害の砌り討死いたし、泉下に忠をぞ尽し訖。天文三癸巳年、竹井一郎左衛門尉光高旧記、天正九年巳歳竹井常陸守氏高・又太郎春高の旧記、今に当邑に伝来し侍る。長臣原田・河上・丹下・江木・山室・江本とて、世々軍功雄略、隣国を震動し訖。
六波羅探題北方北条仲時は寝返った足利高氏の攻撃を受け、光厳天皇と上皇お二方とともに東国へ落ち延びようとしたが、江州番場で進退窮まって一族郎党432人と共に自刃した。この中にいたのが竹井掃部左衛門尉広高・同太郎正高である。『太平記』巻第九「越後守仲時已下自害事」では「竹井太郎・同掃部左衛門尉」と記載されている。
天文年間には竹井一郎左衛門尉光高、天正年間には竹井常陸守氏高・又太郎春高が活躍したという。竹野井と竹井は同じで、遠藤先生の御母堂は旧姓竹井で笠岡市出身だという。小笹丸城は母方の祖先の城というわけだ。『反逆』に登場する竹井藤蔵は、備中竹井党の出身で荒木村重に仕えているという設定となっている。
歴史地理学的にアプローチすると、美星町黒忠の主邑八日市は中世に三斎市が栄えた場所であり、ここから成羽に向かって古い道が伸びていた。今も県道292号、48号、35号で成羽に行くことができる。この八日市往来を押さえる要衝に小笹丸城は位置しているのだ。
歴史的にも文学的にも魅力ある山城。それが小笹丸城跡だ。今は星の里街道という広域農道のおかげでアクセスが容易になっている。石碑は草に埋もれ、説明板は長年の風雨で傷んでいるものの、遺構がよく残っている。中世の豪族を思うもよし、現代の文豪を偲ぶもよしである。
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