いやの~かずらばしゃ~ゆらゆ~ら
うおい~のごぜんみそ~
という、懐かしいCMがある。私にとって祖谷のかずら橋の原体験なのだが、肝心の味噌をよく知らない。道の駅やJA直売所など各地の手作り味噌を買って、毎朝味噌汁をつくっているのに、分からないとは何たる不覚。調べてみたら魚井商店の御前味噌だった。蜂須賀公に供された味噌だという。
三好市西祖谷山村善徳(にしいややまむらぜんとく)に「祖谷のかずら橋」がある。祖谷渓大橋から撮影した。秘境にふさわしい景観だ。
祖谷川がつくるV字谷にある集落は、川面からずいぶん高い位置にある。川まで下りて渡ろうにも、あまりにも急な崖だ。敵の侵入を阻むのにはよいが、生活に必要な橋を架けるのは至難の業だったろう。説明板には、次のように記されている。
重要有形民俗文化財 祖谷の蔓橋(かずらばし)
急峻な四国山地に抱かれた祖谷地域は、屋島の合戦に敗れ逃れた平国盛と安徳帝の一行が、平家再興を願い土着したと伝わる隠田集落であり、近代まで外部との交通が隔絶されていたために、中世以来の生活様式や独特の風俗が原形に近い状態で残されている。
この祖谷地域を流れる祖谷川に、国の重要有形民俗文化財に指定される祖谷のかずら橋が架かっている。厳寒な冬の山野で採取したシラクチカズラを編み連ねて作られたこの橋は、橋床の隙間から谷底が見え、長さ4mの吊り橋の揺れと相まって渡る人に適度なスリルを味わわせる。
日本三奇橋にも数えられるかずら橋の由来には諸説あり、平家の落人が追手から逃れるために切り落とせるように作ったとする説や四国を巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説などが伝えられている。
両岸の古木に重みを託し、祖谷川の清流に影を映した悠然たるかずら橋の姿は、遠い昔の祖先の暮らしを想い抱かせるとともに、自然と調和した美しい景観を生み出し、その強烈な個性は多くの観光客の琴線を刺激し続けている。
長さ45m 幅2m 水面からの高さ(中央)114m
今でこそ祖谷トンネルのおかげで大型バスでもアクセスが容易だが、かつては池田方面から祖谷川沿いの長い山道を利用するしかなかったそうだ。その祖谷街道も大正九年(1920)の開通だというから、さらに以前は隔絶された世界だったのだろう。
祖谷トンネルは昭和49年の竣工である。ずっと以前、私が初めて祖谷に行った時には有料道路だったが、平成10年に無料化されたらしい。ただ、トンネル前後のヘアピンカーブが山深さを物語っている。
日本三奇橋の一つだという。このブログでもその一つ、岩国の錦帯橋を紹介したことがある。あと二つは山梨県桂川の猿橋、富山県黒部川の愛本橋とされることが多いが、観光的な価値を考慮すればかずら橋が入選してもおかしくない。
この珍しい橋を架けたのは弘法大師か平家の落人か。古文献における初見は正保三年(1646)の「阿波国図」だという。日露戦争の頃までは西祖谷と東祖谷合わせて13か所のかずら橋があったが、その後、針金吊橋への架け替えが進み、大正の末にかずら橋は無くなってしまう。
しかし、観光面での価値を惜しむ声が上がり、昭和3年にかずら橋は復活。近年は3年に一度架け替えが行われている。今年はちょうど架け替えの年で、1月から2月にかけて作業が行われた。
かずら橋を渡った先、西祖谷山村善徳と西祖谷山村閑定(かんじょう)の境に「琵琶の滝」がある。
白布を晒しているかのように美しい。この滝にも伝説があるようだ。
琵琶の滝の由来
源平の戦いに屋島で敗れた平国盛が安徳天皇を奉じ祖谷に潜入し、この地に土着したということは古来史実としてみられ現在では学問的に究明せられ全国的に数多い平家伝説の一つにかぞえられている。その落人達が昔日の古都の生活をしのびながら滝の下で琵琶をかなでつれづれを慰め合ったと伝えられている。
祖谷のキーマンは平国盛という武将だ。国盛は平教経の別名で、屋島の戦い後に敗れた後、祖谷に隠れたという。教経の死については『平家物語』巻第十一「能登殿最期」に、次のように描かれている。
能登殿ちとも噪ぎ給はず、真先に進だる安芸太郎が郎等をすそを合せて、海へどうと蹴入れ給ふ。続いてよる安芸太郎を、弓手の脇に取て挟み、弟の次郎をば馬手の脇にかい挟み、一しめしめて、「いざうれ、さらば己等死出の山の供せよ。」とて、生年廿六にて、海へつとぞ入給ふ。
このように壇ノ浦の海に沈んだというのが通説だが、『吾妻鏡』では異なる史実が伝えられている。巻第三の寿永三年二月十五日条である。
去七日於一谷合戦。平家多以殞命。…経正、師盛、教経(已上三人。遠江守義定討取之。)
また一次史料として知られる『玉葉』では、次のように記されている。巻四十の寿永三年二月十九日条である。
此日、中御門大納言被来、伝聞、平氏帰住讃岐八島、其勢三千騎許云々、被渡之首中、於教経者一定現存云々、
『吾妻鏡』は幕府の正史とはいえ成立年代はずいぶん後だから、ここでは『玉葉』を重視しておこう。一ノ谷の戦いで討ち取られた平家武将の首が、源氏方に引き渡された。問題はその次だ。「教経の首は確かに存在していた」のか「教経は確かに存命である」のか。首があるのと命があるのとでは大違いだ。
諸説を整理しておこう。討死したとする説は二つあり、『吾妻鏡』は一ノ谷の戦い、『平家物語』は壇ノ浦の戦いにおいてである。いっぽう、生存したとするのは祖谷における落人伝説。子孫は地名から阿佐氏を名乗った。
ところが調べを進めると、祖谷に隠れ住んだ国盛こと教経は、源氏の追捕を恐れてさらに奥地に逃れたという説が見つかった。高知県安芸郡馬路村に伝わる落人伝説であり、教経の子孫は門脇氏を名乗った。これは教経の父教盛が門脇中納言と呼ばれたことにちなむという。
教経が道連れにした安芸太郎・次郎は土佐安芸郷の出身だったから、壇ノ浦から逃げた教経を四国へ導いたのは安芸兄弟だったともいう。教経が戦線離脱したのは屋島だったか壇ノ浦だったか。
正史か物語か、それとも伝説か。討死か逃避行か。そうあってほしいという願いとともに、それぞれに記録され語り伝えられてきた。壇ノ浦の潮流を前にすれば入水の悲劇に心痛む思いがするし、山深い祖谷に来れば落人伝説がさもありなんと感じられる。橋がカズラで造られたのはやはり、危急の際に切り落とすためだったろう。