海を陸に変えて岡山の穀倉地帯は生み出された。児島湾の干拓である。その嚆矢となったのが宇喜多開墾であり、その潮止堤防を宇喜多堤という。天正の昔に宇喜多秀家が行った。実際の指揮を執ったのは、高松城水攻めで築堤の実績があった岡豊前守利勝と千原九右衛門勝則であった。本日は宇喜多家の宿老、岡豊前守に注目しよう。
岡山市東区瀬戸町肩脊(かたせ)に「肩脊城址」と刻まれた標柱がある。
肩脊の集落を守るようかに背後の山に位置している。南北に細長い山で、頂部は広く削平されている。肩脊から東に向かえば大内峠を越えて吉井川に出る。南西には宇喜多氏の拠点亀山城があるから、緊密に連携して守りを固めていたのだろう。標柱には次のように記されている。
宇喜多秀家の家臣岡豊前守利勝の居城
平成七年三月 瀬戸町教育委員会
登城口にはもっと詳しい説明板がある。
肩脊城跡
肩脊(かたせ)城は南北に長い志路山の山頂を中心に築かれた連郭式山城である。
山頂の南端に本丸跡、北端に二の丸跡があり、二つを繋ぐように馬場跡が残されている。また、ほかに幾つかの平坦地が認められる。現在、二の丸跡に石碑が建立されている。
城主は宇喜多秀家の家臣、岡豊前守利勝、岡越前守利秀の親子が居城したとされている。
本丸跡からは宇喜多氏の本拠地である沼(ぬま)方面が一望でき、宇喜多氏家臣の居城にふさわしいといえる。
瀬戸町歴史事典より
平成二十八年二月
岡豊前守、岡越前守の父子が居城していたという。亀山城を守る宿老にふさわしい居城と言えるだろう。しかし備前平定が進むと、肩背城の存在意義は薄れたはずだ。『吉備温故秘録』巻之三十八城趾中「磐梨郡」には、次のように記されている。
肩脊城 肩脊村の北に城山跡あり。
岡豊前守居城といふ。此豊前守は赤坂郡九(下カ)谷白石の城主といふ。
案ずるに初め当城に居けるが、白石城は松田方の城なれば、松田没落後当城より白石城に移る、又は預りにて家臣を置て守らせしや未詳。豊前が事跡は白石城に委く記。
宇喜多直家が松田氏を滅ぼしたのが永禄十一年(1568)。直家が亀山城から岡山の地(石山城)へ移ったのが天正元年(1573)。おそらく、その頃に岡豊前守も白石城へ移ったのではないか。岡氏二代が肩脊城を守っていたとは考えにくい。
もっとも宇喜多家中の有力武将として各地を転戦していたであろうし、築堤技術を有する人材だから、平和な肩脊城でのんびり過ごすわけにはいかなかったであろう。
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