埴輪の起源について強烈な印象を残したのは、手塚治虫『火の鳥(ヤマト編)』である。切ない物語の原話は『日本書紀』であり、私はすっかりそれを信じていた。
しかし、考古学の成果によれば、埴輪の起源は吉備の特殊器台から発達した円筒埴輪だという。その円筒埴輪で最古と呼ばれるのが「都月型特殊器台形埴輪」である。
岡山市北区津高と津島本町の境に「都月坂1号墳」がある。写真の表示には「都月坂古墳」とあるが、都月坂古墳群の一つである。
津島小学校からここに至る坂を都月坂と呼ぶ。古墳群は4基から成り、特殊器台形埴輪が出土した前方後方墳が1号墳である。草をかき分けて、足を踏み入れてみよう。
全長約33mの前方後方墳だそうだ。写真は前方部を見ている。木々が生えるばかりで説明板もない。小学生向けの郷土誌『津島のむかし』には、次のように記されている。
千七百年ほど前になると、権力を強めた「かしら」は、大きく土を盛った自分だけの墓をつくるようになりました。これが古墳です。都月坂頂上のすぐ西にある都月坂一号墳は、西日本ではじめて古墳が造られるようになったころの一つであり、筒形の大きな土器の埴輪を、全国ではじめて立てた古墳の一つでもあります。
この「筒形の大きな土器の埴輪」こそ「都月型特殊器台形埴輪」である。古墳時代最初期にあって、特殊器台の特徴を受け継ぐ埴輪を出土したのである。同様な埴輪は吉備のほか大和などでも見つかっている。特に、あの箸墓古墳にもあったことは声を大にして言いたい。これらの特殊器台形埴輪はまとめて「都月型」と呼ばれており、その標式遺跡が都月坂1号墳ということになる。
旭川右岸の沖積平野を支配し、中央政権との紐帯を誇示した「おかしら」。お目にかかれるなら、邪馬台国のこと、卑弥呼のこと、聞きたいことは数多ある。共通の埴輪が見られることは、何を意味しているのか。春成秀爾氏が示唆する卑弥呼吉備出身説が真実味を帯びて聞こえる。「都月型」発祥の地に立って、そう思う。
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