「隠れ里」とは、お客が少なくて時間と空間を独り占めできるような観光地のことだろう。もっとも「隠れ里」というPRそのものが、隠れるのに不向きなことを示している。
本当の隠れ里は、グアム島にある横井さんの洞窟だったり、ルバング島にある小野田さんのジャングルなのかもしれない。見つかってはならないという強い意志でお二人が生き抜かれた場所である。
我が国には平家の落人伝説のある山里がいくつもある。そこには本当に落人の生きる執念があったのかもしれないし、後世の住民が自らのレゾンデートルとして貴種流離譚を採用したのかもしれない。
上郡町佐用谷(さよだに)から、つづら折りの山道をしばらく上ると、上郡町小野豆(おのず)に入る。見通しが利かない山道が急に開けると、集落が見える。道沿いに説明板がある。読んでみよう。
落人伝説の里
兵庫県赤穂郡上郡町小野豆
ここ、小野豆の集落は寿永4年壇之浦の戦いに破れた平家一族の重臣平経盛(平清盛の実弟)が、4人の家来と共に源氏の追手をのがれ、この山里の地に落ちのびてきたと言い伝えられています。
この地を開き小野豆の開祖となった経盛は、その後源氏の追手に捕らえられ家来を残して、かえらぬ人となりました。
それからは五輪塔(平家さん)をまつり、経盛の供養と村の繁栄を祈りつつ現在にいたっております。
標高300mのこの集落は上郡町にのこる7つの山頂集落のひとつで、高田周辺には、城跡(中世)と新山寺村跡(山頂集落)があり、小野豆の高いところには神社や遥拝所があり、遠く瀬戸内海が望めます。
壇ノ浦で入水したはずの平経盛の隠れ里である。似たような場所は「ねにのみ泣けど知る人のなき」で紹介した。この記事にある洞窟と同様な場所が小野豆にもある。
案内表示に従って進むと「ジャンジャン穴」がある。
ジャンジャン穴とは珍しい名だ。詳細な説明板があるから読んでみよう。
平家の落武者とジャンジャン穴
八百年のその昔、平家と源氏が争った。一ノ谷の合戦、屋島の合戦、そして最後壇ノ浦の合戦は彼我入り乱れの大乱戦となり平軍は惜敗した。
その時九死に一生を得た「平経盛」(平清盛の実弟)は家来数人を引き連れ小舟で瀬戸内の東方をめざし播磨の国の西の端、相生(おう)の入江に漂着した。落武者たちは草を褥(しとね)に木の根を枕とし人目を避けながら、小野豆に辿り着きこのジャンジャン穴を見付けて生活をしていた。
一方源氏の武士達は平家の残党を探し求めた。その折り谷川に茄子の蔕(へた)が流れて来るのを見付けたり、また鶏の鳴く声も聞こえた。
“人が住んでいる 探し出せ”………
経盛たちはとうとう見つけられた。
時は寿永四年(1185)九月十五日三位経盛卿は自害した。(六十一歳)
経盛の亡き後家臣たちは遺骸を想い出の相生の浦や、屋島も眺望できる見はらしの良い場所(この上の平家塚)に葬り、主を弔いつつ細々と暮らした。
この洞窟の名前の由来は、中に向かって声をかければ中から“ジャンジャン”と反響することから付けられた。
平家の落人の里として言い伝えられている。この小野豆を後世に残したいために、高田地区連合自治会が主体となり、平成五年から平家塚やその周辺整備、さらにジャンジャン穴の復元をし、また組曲「平家郷」も作られた。
平成六年秋
この上の平家塚のあたりには、確かに眺望の利く場所があった。麓の高田小学校が確認できた。よく分からなかったが、はるか屋島も望めるという。隠れ里が源氏に見つかったのは茄子の蔕や鶏の鳴き声だったから、小野豆では昭和6年まで(上郡町ホームページ)鶏を飼ったり、茄子を作ることは禁忌だったという。
その「平家塚」である。
経盛が葬られた場所である。人々の祈りが集まる場所でもある。ところが、江戸中期の有名な地誌『播磨鑑』赤穂郡名所旧跡竝和歌には、少々異なる言い伝えが紹介されている。
【中将塚】高田庄在小野豆村 清経屋敷と云有
是ハ土俗云伝ふ。昔清経左中将豊前国柳と云浦にて入水する体にて密に磯つたひに落て此処に来り。一生遁世の体にて果玉ひたる故、所の者此塚につき籠しと也。又今も所の者其例とて正月及ひ五節句等にも餅をつかすして万の祝ひ事をおろそかに遁世者の如くせると也。
平清経とは小松内府重盛の子、清盛の孫である。寿永二年(1183)、木曾義仲の都入りにより大宰府に逃れた平家であったが、重盛の家人であった緒方惟栄(これよし)に追われ、筑前国山鹿から豊前国柳浦(やなぎがうら)に渡った。この時、行末を悲観した清経は「しづかに経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける」と、『平家物語』巻第八「太宰府落」に記されている。
小野豆にやって来たのは清盛の弟である経盛か、孫の清経か。禁忌とされたのは茄子と鶏なのか、餅なのか。「ねにのみ泣けど知る人のなき」でも落人が藤原兼氏から平経盛へと変化している。形なき伝説は、忘却と新たな語りが繰り返されているのかもしれない。