題しらず よみ人しらず
いかにせむ 御垣が原に 摘む芹の 音(ね)にのみ泣けど 知る人のなき
『千載和歌集』巻第十一「恋歌一」667
むかし、ある男が美しい御后にお目にかかりたいと摘んだ芹を献上したものの、ついに思いは届かなかった。土を洗い流した白い根の瑞々しさが、かえって苦い恋を思い起こさせる。私も声を立てて泣くのだが、誰も分かってくれないだろう。
古い説話に自らの叶わぬ恋心を重ね、ひとり涙するこの男は、平経盛(清盛の弟)であった。「よみ人しらず」なのは、朝敵となった平家の名を憚ってのことだという。同様なエピソードは平忠度(経盛の弟)の「さざなみや 志賀の都は…」で有名だが、同時代的な歌の評価は経盛のほうが優れていたという。
鳥取県八頭郡若桜町落折(おちおり)に平家落人伝説がある。因播国境を戸倉トンネルで抜ける国道29号は快適なドライブができるのだが、山中に人家はほとんどない。若桜方面から進んで落折川沿いの長い洞門を抜けると、落折の集落がある。今でこそ交通量が多いが、かつては逃げ込んでも見つからないくらいに隔絶されていたのだろう。
集落入口から少し進み分岐を右に進むと、道路脇に次のように記された説明板がある。
平家伝承の地 落折
〈平経盛の墓〉経盛主従の墓と七色に変化するモミジがある。
(ここより右側20m先)
〈経盛隠棲の洞窟〉源平合戦で敗れた平清盛の弟、経盛らがこの村に逃れて来て、村奥の洞窟に隠れたと伝えられる巨岩がある。
(ここより右側 家の谷川上流400m)
若桜町
道から大きなモミジが見えるので入らせてもらうと、古い五輪塔群と一基の宝篋印塔がある。その隣にある古株は、県指定天然記念物だった「落折のイチイ」である。平成6年に指定解除となった。厚く繁茂した苔が永い歴史を物語るかのようだ。
先程の分岐を直進してしばらく進むと、大きな岩が現れる。
これが「平経盛隠棲の洞窟」である。どこか秘密基地のようなワクワク感のする場所だ。
平経盛は息子の経正や敦盛を一ノ谷の戦いで失った。経盛は壇ノ浦まで頑張ったが、最期は入水して果てた。いや、さにあらず。日本海に逃れた経盛主従は因幡に上陸し、奥地を目指したのだろう。ついには因播国境までたどり着いたのであった。説明板を読んでみよう。
平経盛隠棲の洞窟
寿永4年(1185)、壇ノ浦の戦に敗れた平氏の落武者達は、源氏の厳しい詮索の目を逃れて、全国の果てに隠れ住んだといわれている。
この落折部落もその「隠れ里」と伝えられる一つで、平経盛主従20余人が、この洞窟内に隠れ、ひそかに再挙を夢みていたと伝えられる。
巨岩重畳として広い空間をつくり、あちこちの抜け穴は連絡道となって、攻めるに難く守るに易い地下城を思わせるに充分である。この道を少し上ると、落人達が馬の嘶きを警戒して、馬を隠したと伝えられる、「ウマガクシの谷」のたわみがみえる。落折部落はすべて平家姓である。
ここに暮らしていらっしゃるのは平家さん。一族のアイデンティティを姓にするとは、なんと誇り高いことか。平家の末裔であることを脈々と語り伝えてきたのだろう。しかし、『因幡誌』第五郡郷之部八東郡若桜郷「落折村」の項の記述は異説を紹介しているが、この異説こそかつては通説だったようだ。
昔藤原兼氏と云ふ人の一族兵乱を避て此所に落来り居住せし故落居村と称す今落折と書くは誤なりと
(中略 ※藤原氏とのゆかりを紹介)
何の世何国より来住せしにや或は皆平家の落人なりとも云ふさる事もあるにや当所の氏神船河原明神は平経盛の霊神と云伝ふれば拠なきにあらず
かつての落人は藤原兼氏だった。平経盛は軒を借りるような存在だったが、いつの間にか母屋を乗っ取ってしまった。真実は何なのか、今となっては知るよしもない。しかし、落人伝説の背景には、平家を代表する歌人であった平経盛へのあこがれがあったことは間違いないだろう。
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