今日11月7日、ロシア革命(十月革命)からちょうど百年を迎えた。この革命は漆黒の闇を照らす光明であり、闇そのものでもあった。二十世紀は良くも悪くも社会主義の時代であったといえよう。革命の意義は本場ロシアにおいても未だに定まっていない。その評価は我々に課せられた課題でもある。とはいえ、本日は革命とはまったく関係のない源平史跡をお届けしよう。
織田信長は本能寺で最期を迎える際に「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」と舞ったと思われているが、本当は桶狭間の戦いの直前である。『信長公記』に記録されている。
「人間五十年」は享年49の信長に実にふさわしいのだが、元ネタは幸若舞「敦盛」の一節で、平家の若き貴公子・敦盛(あつもり)を殺害した熊谷直実(くまがいなおざね)のセリフである。
神戸市須磨区須磨寺町四丁目の須磨寺に「源平の庭」がある。平敦盛と熊谷直実が向かい合い、『平家物語』巻第九「敦盛最期」で描かれる場面を再現している。
源義経の奇襲により、一の谷に陣していた平氏はまたたく間に敗走を始めた。これを追う熊谷直実は、名のある公達らしき武将が沖の船を目指して馬で海に乗り入れるのを見つけた。そして…。
「あれは、大将軍とこそ見参(みまいら)せ候へ。正(まさ)なうも敵(かたき)に後(うしろ)を見せさせ給ふ者哉(かな)。返させ給へ。」と、扇を揚(あげ)て招きければ、招かれて取て返す。汀(みぎは)に打上らんとする所に、押並(おしならべ)て、むずと組(くん)で、どうと落ち、取て押へて頸(くび)を掻(かゝ)んとて、甲(かぶと)を押仰(おしあふの)けて見ければ、年十六七ばかりなるが薄仮粧(うすげしやう)して鉄漿黒(かねぐろ)也。我子の小次郎が齢程にて、容顔誠に美麗なりければ、何処(いづく)に刀を立べしとも覚えず。
直実が「これは、大将軍とお見受けいたす。見苦しくも敵にうしろ姿をお見せになるとは。戻られよ」と扇で招くと、その武将は引き返してきた。波打ち際で強引に馬を並べ、二人はぐいっと組み合うと、どさっと馬から落ちた。直実は武将を取り押さえ、首を取ろうと兜を上げて顔を見れば、薄化粧でお歯黒をした16、7歳の少年であった。我が子の小次郎くらいの歳で、美しい顔をしていたので、どこに刀を刺そうか戸惑うのであった。
直実「あなたは何というお方なのか。名乗られよ。お助けいたそう」
敦盛「お前こそ誰なのだ」
直実「たいした者ではござらぬが、武蔵の住人、熊谷次郎直実と申す」
敦盛「それでは名乗るのはやめよう。お前にとってはよい敵だ。名前は聞かずとも首を取って人に聞け。見知った者がいるはずだ」
直実「ああ、この方は大将軍だ。この方ひとりを討ち取ったとしても、負ける平家方が勝つはずがない。討ち取らなかったとしても、源氏方の勝利は疑いない。小次郎が傷を少し負っただけでも、親の私はかわいそうに思うのに、この方の父は子が討たれたと知って、どれほど嘆き悲しむであろうか」
(その時、味方が集まって来るのに気付いた)
直実「お助けしようと思ったが、味方の兵はウンカのごとく多い。とても逃げることはできますまい。他の者に首を取られるより、同じことなら私が首を取り、後世の供養をいたしましょう」
敦盛「いいから、はやく首を取れ」
(直実は泣く泣く首を取った)
直実「ああ、武士ほど不本意なものはない。武家に生まれなかったならば、こんなつらい思いをすることもなかっただろうに。非情にも討ち取ってしまった…」
神戸市須磨区一ノ谷町五丁目に市指定文化財「敦盛塚」がある。写真では分かりにくいが、高さが397cmで、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぐ大きさだという。
ここは敦盛が討ち取られた場所で、この五輪塔は胴塚と思われているが、源平の時代にまでさかのぼるほど古くはない。市教育委員会の説明板を読んでみよう。
紀年銘はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられるが、風・空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、室町時代末期から桃山時代にかけての製作と思われる。
この付近は源平一の谷の合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、“敦盛塚”と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に造立したなどの諸説がある。
北条貞時は第九代執権で、神戸市兵庫区の清盛塚を建立したと伝えられる。平氏の系譜に連なる北条氏の得宗として、顕彰活動に積極的に取り組んだとも考えられる。だが、石塔の様式は近世初期の建立を示しているので、北条氏は関係なさそうだ。
須磨寺に戻って境内を散策しよう。「敦盛卿首洗池」と「源義経卿腰掛松」がある。
ストーリーとしては、敦盛塚のあたりで討ち取った敦盛の首を、直実は首洗池で洗い、腰掛松に腰掛けた義経が実検した、ということになろう。
須磨寺の墓地近くに「敦盛卿首塚」がある。
首実検に供された首は、ここに埋葬されたのだろう。今も丁寧に供養されており、傍らには「敦盛空顔憐清追福増進仏果大菩提也」と記された新しい卒塔婆がある。「空顔憐清」は法然上人が授けた敦盛の法名だ。後に出家して法然の弟子となった直実が依頼したのだろう。あの時、敦盛に約束した後世の供養を、直実は忘れてはいなかった。
武士の運命とはいえ、我が子と同じような若き命を奪わねばならなかった。「こは何事のあらそひぞや」直実は自問自答したに違いない。生と死について、苦しいまでに考えただろう。その時の思いが、これである。「人間界の五十年なんぞ、天上界に比べれば夢幻のような一瞬だろう。いちど生を受け、滅びぬものがあるだろうか。」この思いは、西行の嘆息でもあり、信長の決意でもあった。敦盛の死は昔も今も、人の心を動かしている。
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