ねとらぼ調査隊が昨年4月に実施した調査「テレビドラマで大石内蔵助を演じた歴代俳優で一番好きなのは?」で、トップ3は里見浩太朗「忠臣蔵(1985)」、二代目中村吉右衛門「忠臣蔵~決断の時(2003)」、五代目中村勘九郎「元禄繚乱(1999)」であった。私なら勘九郎だ。
ドラマには当然妻のりくが登場するが、演じた女優さんをトップ3と対応するように挙げると、中野良子、黒木瞳、大竹しのぶとなる。事件後、大石はりくを実家のある但馬豊岡に戻し、討入前には累が及ばぬように離縁したのであった。本日は良妻賢母として名高い、りくの生誕地からのレポートである。
豊岡市京町に「大石陸女生誕之地」と刻まれた石碑がある。
「りく」は「理玖」と書くことが多いが、ここでは「陸」と表記されている。実家は豊岡藩家老の石束氏である。『豊岡誌』附録上所収の「石束氏系譜」には、次のように記されている。
先祖不知、京極対馬前司氏信より壱岐守高峯、武蔵守高秀、長門守高吉公まで数代主従の礼を忝(かたじけのう)して近江国・横田・石束・両郷を領し則横田に居住す
このように近江出身で京極譜代の家臣であることを誇っている。先祖の横田平左衛門は京極高吉に仕えていたが、主家に二男高知が生まれると妻が乳母となった縁で以後、高知に随順したという。
横田平左衛門の系譜は、平左衛門-石束筑後-出雲-源五兵衛毎術-源五兵衛毎公-宇右衛門毎明-源五兵衛一学と続く。主家京極氏は、京極高知-高三-高直-高盛-高住-高栄-高寛-高永と続く。
本日の主人公りくは石束毎公の娘である。毎公は但馬豊岡藩初代の京極高盛と二代高住に筆頭家老として仕えた。元禄赤穂事件当時の藩主は高住だった。説明板を読んでみよう。
大石りく夫人と豊岡藩家老石束家
赤穂義士の首領大石良雄の夫人りく女は、寛文九年(一六六九)豊岡京極家の家老石束(いしづか)源五兵衛毎公(つねとも)の長女に生れた。その生家石束家の場所は、この一帯である。
りく女は天性賢明にして貞淑年十九才で赤穂、浅野家家老大石家に嫁いだ。
赤穂藩の大難後、夫良雄に仇討の謀成るや、長男主税(ちから)を残して山科より一男二女を連れて豊岡に帰り、夫に後顧の憂なからしめ、父と共に日撫正福寺に住んだ。
義士が本懐を遂げた後は、剃髪して香林院と称し、ひたすら夫や長男や義士たちの冥福を祈った。
やがて、帰豊後生れた代三郎が長じて広島、浅野侯に仕えるに及んで彼の地に移り住み二十有余年仏恩報謝に生き、元文元年(一七三六)十一月、六十八歳を以て死去。その地国泰寺に葬られ、ここ豊岡の正福寺には遺髪を埋葬した。
関係史跡
正福寺(日撫)・次男吉千代の墓(大門)
瑞泰寺(三坂)・祖父毎術(つねやす)の供養塔(養源寺)
昭和三十三年夏記之
大石りく女生誕地顕彰会
発起豊田区
再建昭和六十三年八月吉日
豊田区
石碑のある場所に石束家の屋敷があった。宵田町口(宵田橋)の南にあり、屋敷の西隣(市立図書館のあたり)にある豊岡陣屋を守っていた。りくはここで少女時代を過ごし、貞享三年(1686)に赤穂藩筆頭家老の大石家に嫁いだ。元禄十四年(1701)の事件後にいったん実家に帰り、その後、内蔵助とともに山科で暮らした。
翌年、三男代三郎を身籠っていることが分かると、再び実家に戻り無事に出産した。討入後の処断で夫内蔵助と長男主税を失い、長女くう、次男吉之進も若くして亡くなってしまう。正徳三年(1713)に代三郎の広島藩仕官が決まると、二女るりとともに広島に移り、そこで生涯を過ごした。墓は広島の国泰寺にあるという。
豊岡市日撫(ひなど)に「大石内蔵助妻りく像」がある。りくが今も慕われていることが分かるが、酸性雨の影響が痛々しい。
傍らに顕彰碑があるので読んでみよう。
【大石りく顕彰碑】
大石内蔵助良雄の妻『りく』は、豊岡藩主京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として豊岡で生まれました。
『りく』は、十八歳で赤穂藩家老の大石良雄のもとに嫁ぎましたが、元禄十四年、藩主浅野内匠頭の殿中刃傷事件が起こり、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをする前の、元禄十五年四月に夫と離別し、子供を連れて但馬豊岡に帰りました。その後二男「吉千代」は出家させ、長女「くう」は十五歳で早逝し、三男「大三郎」が広島の浅野家に召し抱えられました。『りく』は次女「ルリ」を連れて大三郎の元へ移り住み、元文元年、六十八歳で亡くなりました。
『りく』は、内蔵助の妻として、浪士が本懐を遂げるまでの間、残された浪士の家族の面倒を見ながら、ひたすら困苦にたえ、良妻賢母の鑑として称えられています。
ここ、日撫の香林院(正福寺)には『りく』の遺髪塚があり、長女「くう」と次男「吉千代」の墓と肩を寄せ合うようにして祀られています。
りくは5人の子に恵まれたが、りく像と一緒に旅しているのは、くうと吉千代であろうか。階段を上がって遺髪塚にもお参りしよう。
豊岡市日撫に「大石りく遺髪塚」がある。詳しい説明板があるので記録しておこう。
豊岡市指定史跡
大石良雄妻理玖の墓
元赤穂浅野家の浪士たちによる江戸吉良邸討ち入り事件は、平穏怠惰な世情に警鐘をならし、泰平な世に慣れきった人々を震撼させるできごとだった。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日のことである。
討ち入りを率いた中心人物は大石内蔵助良雄、その妻の生誕地がここ豊岡である。理玖は、寛文九年(一六六九)代々豊岡京極家の家老を勤める石束(いしづか)家で、宇右衛門の長女として生まれた。現在の市立図書館あたりが豊岡藩陣屋があった場所で、その東側から北側一帯には石束家など藩重職の屋敷があった。理玖の父は、当時はまだ若かったが家老の一員として藩政にかかわり、祖父源五兵衛毎術(つねやす)が国家老として政務全般を担当していた。理玖生誕のころの父宅は現在の京町七番付近、豊田会館あたりにあったと推定されている。
やがて成長し、理玖は赤穂浅野家の大石良雄の元に嫁ぐ。十数年の間は赤穂での平穏な暮らしが続き、二男二女に恵まれる。だが、元禄十四年(一七〇一)三月十四日に浅野長矩による江戸城での抜刀事件が勃発し、家族をはじめ、関係者の苦悩がはじまる。
理玖は討ち入りの年四月ころ豊岡に帰る。大石は十月には正式に理玖を離縁し、罪が家族に及ばないように配慮している。夫たちの討ち入り成功、さらに夫・長男主税をはじめとする人たちの切腹の報に接し、公職を退いた父毎公(つねとも)とともに正福寺に移り、彼らの菩提をとむらった、と伝えられている。
二男吉之進と長女くうの早逝という不幸はあったものの、やがて、関係者の尽力により豊岡で生まれた三男大三郎が広島の浅野家に仕官できることとなり、次女ルリとともに広島に移り、元文元年(一七三六)に六十八歳で波乱の生涯を閉じている。
この塔は、理玖の遺髪塚である。長女のくうの墓の傍らに、との理玖の遺言によるものと伝承されている。明治の末、荒廃していたものを修復建立した。向かって右に吉之進の供養塔、左にくうの墓碑も改修されて並んでいる。なお、吉之進の墓は市内三坂大門山の旧興国寺墓地にある。
ここも亦 元禄美挙の花の趾
京極杞陽(京極家第十四代目 俳人)
二〇〇五年三月 豊岡市教育委員会
りくの遺髪塚には「香林院華屋寿榮大姉」、吉之進の供養塔には「祖璉元快禅師真身塔」、くうの墓には「正覚院本光妙智信女」と刻まれている。刃傷事件さえ起こらねば、三人はここまで有名になることはなかっただろう。実家の石束家もそうかもしれない。
豊岡市三坂に「豊岡藩家老石束家墓所」がある。近くには立派な京極家墓所がある。かつて藩主の菩提寺瑞泰寺があった場所だ。
案内表示があるものの、落葉が散り敷く寂しい墓地だ。藩政時代は美しく保たれていたであろうに。この一角には、りくの縁者4名の墓がある。説明板を読んでみよう。
墓所御案内
瑞泰寺跡と藩主京極家墓所
(中略)
豊岡藩家老石束家墓所
大石りく父石束源五兵衛毎公(つねとも)正徳三年(一七一三年)歿
同 母石束やす宝永元年(一七〇四年)歿
同 弟石束毎正(つねまさ)元文三年(一七三七年)歿
同 叔父木下勘兵衛元紀宝永七年(一七一〇年)歿
三坂区 三坂高年クラブ 大石吉之進墓所保存会
写真では左から父毎公、母快楽院、父の弟木下勘兵衛、弟毎正の墓が並んでいる。毎公の家老職は子の毎明(つねあき)、その子の毎雅(つねまさ、一学)に継承される。
享保十一年(1726)、豊岡藩京極家は前藩主の死去により無嗣断絶になるところを、3万3千石から1万5千石への減知により弟の高永に相続が認められた。この5代藩主高永に筆頭家老として仕えていたのが石束毎雅であった。
藩主高永は石高相応の藩政となるよう改革の断行を倉持左膳に命じたが、筆頭家老毎雅は強く反発し、延享四年(1747)ついに職を辞して藩を去ってしまった。
藩主は聖域なき構造改革を断行しようとしたのに、既得権益を守ろうとする筆頭家老が抵抗勢力となったのか。筆頭家老が現実的で穏健な対応をしようとしたのに、藩主が「どげんかせんといかん」と急進改革派を支持したのか。財政を好転させようと藩当局が柳行李の生産を保護奨励するようになるのは、もうしばらく後のことだ。
豊岡市京町の神武山公園に「京極高住句碑」がある。近代の俳人の句碑のように見えて、元禄赤穂事件当時の豊岡藩主である。
石の形も刻まれた文字も美しいが、内容は読み取れない。裏側にある説明を読んでみよう。
こそ見めの至りが浦や所の春 云奴子
-延宝七年(一六七九)二見浦連歌会の発句-(高住直筆)
三十六歌仙の一人である藤原兼輔が結びに「こそ見め」と歌った絶景の二見浦(城崎町)は、わが領地であるが、今こそ春たけなわである
京極高住(一六六〇~一七三〇) 豊岡藩京極家二代目当主
俳号を云奴(うんぬ)といい文学大名として有名
まずは、本歌とした藤原兼輔の歌を鑑賞しよう。『古今和歌集』巻九羇旅歌(417)
たぢまの国の湯へまかりける時に、ふたみの浦といふ所にとまりて、夕さりのかれいひたうべけるに、ともにありける人々、歌よみけるついでによめる
夕月夜 おぼつかなきを 玉くしげ ふたみの浦は あけてこそ見め
但馬国の湯は城崎温泉だとされる。二見浦は豊岡市城崎町上山(うやま)だとも明石市二見町だとも言われるが、殿様は我が領地、つまり城崎だと誇りに思っている。但馬国の湯に行くとき、二見浦というところに泊まり、夕食を共にした人々が歌を詠んだので私も読んだ。夕暮れで二見浦の景勝もよく分からんぞ。明日の朝、身支度してからよく見るとしよう。(「ふたみ」=二見と葢身、「あけて」=明けてと開けて)
明日への希望が感じられる未来志向の歌だ。二代藩主高住の治世は延宝二年(1674)から正徳四年(1714)の40年間。享保六年(1721)に藩が無嗣断絶で改易されそうになった際に、存続に尽力したのも高住公であった。
高度成長の時代であったが、元禄赤穂事件という大難もあった。身を裂く思いのりくに生きる覚悟ができたのも、情趣を理解する藩主と実務にたけた筆頭家老という盤石の首脳陣あればこそだろう。りくとその実家、そして主家は今、豊岡の誇りとなっている。