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淫祠邪神を排除する

寛文の三名君、保科正之、徳川光圀、池田光政に共通するのは、学問好きな性格と宗教政策である。儒教を篤く信仰し、既存の寺社を整理した。人々を惑わす淫祠邪教を取り締まり、宗教を通して人心を掌握しようとしたようだ。三人のうちで最も急進的だったのが池田光政である。幕府の寺請制度を実施せず、独自の神道請制度を創設したことである。

この神道請制度は長続きせず、光政の死後に寺請制度へ戻ることになるのだが、寺社の整理には成功した。寺院整理は日蓮宗不受不施派の取締を兼ねており、その一端は以前の記事「誉れ高き名君の宗教弾圧」でレポートした。本日は光政の神社整理の史跡を訪ねることにしよう。

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岡山市東区大多羅町に「大多羅寄宮(おおだらよせみや)跡」がある。

国指定史跡という高い評価が与えられているが、見た目には何が重要なのかピンとこない。説明板を読んでみよう。

国指定史跡 大多羅寄宮跡
昭和2年4月8日指定
岡山藩主池田光政は、寛文6年(1666)領内の神社の由緒を調べさせ、翌年、産土神(うぶすながみ)601社および由緒のある神社を残し、社や祠10,524社を廃して、71社の寄宮に合祀しました。その後正徳3年(1713)、藩主池田綱政はこの地にあった句句廼馳(ぐぐのち)神社境内を拡張し、66社の寄宮をこの地に移して合祀しました。
これが大多羅寄宮です。
寄宮には藩から、毎年修理料と御供料が支給されていましたが、明治維新後はそれも途絶えたため、明治8年、祭神を布勢神社に合祀、現在は東西9間(約16m)、南北10間(約18m)の境内地と石垣を残すのみとなっています。
平成18年3月 岡山市教育委員会

近年は自治体、学校、銀行など、様々な統廃合が進められてきたが、5桁の社祠を2桁にし、さらに1桁にしたというのだから、まさに桁違いである。祟りだとか狐憑きだとか、人心を惑わす淫̪祠邪神を徹底的に排除した。ここまでの神社整理は他藩には見られない。国史跡に指定されるだけの価値がある。

国史跡に指定されたのは昭和2年。その頃、出口王仁三郎の大本教が邪教として弾圧されていた。光政の神社整理は、宗教統制の先駆けとして評価されたのではないだろうか。

現在、宗教統制が強めているのは中国だろう。回教やチベット仏教をターゲットとして、習近平思想の遵守を求めているようだ。我が国が宗教を純化しようとして失敗した如く、中国もこのまま順調には進まないだろう。人の心は本来的に自由なのだから。


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