「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」
寅さんといえば昭和の国民的ヒーローである。少し前に友人と飲んでいて寅さんの話になった。友人は「こんなおっちゃん居ったらおもしろいなあとは思うけど、身近にほんまに居ったら困るやろなあ」と語っていた。その通りだ。映画だからいいのだ。しかし、常人が行うことをしたのではヒーローの資格がない。
葛飾区柴又七丁目の柴又帝釈天に「御神水」がある。これが寅さんの産湯にもなったのだろう。この水量はまさに神の水である。少し暑くなってきた頃で、流れ出す水が参拝者に清涼感を与えていた。
この日もずいぶんと賑わっていた。私は寅さんからの連想でここを訪れたが、帝釈天への信仰心に発して足を運ぶ人がほとんどのようだ。帝釈天を祀るお堂は各地にあるが、すっかり柴又のイメージが定着している。その由来を『柴又帝釈天 彫刻の寺・庚申まいり』(帝釈天題経寺発行)から引用しよう。柴又帝釈天の正式な寺名は経栄山題経寺で宗旨は日蓮宗である。
当山には昔から日蓮聖人が自からお刻みになったと言われる帝釈天の本尊が安置されておりましたが、江戸時代の中期に一時、この本尊が所在不明になっていました。ところが今から二百年前、当山第九代の亨貞院日敬上人の代になって、本堂を修理したところ、棟の上から一枚の板本尊が発見されました。丁度そのときが安永八年(一七七九年)の春、庚申(かのえさる)の日であったということです。
この本尊が庚申の日に出現したというので「庚申」を縁日と定めたのです。
(中略)
板本尊が発見された安永は、九年で終り、次いで世は天明となり、飢饉と疫病が曼延して、その非惨だったことで歴史上でも有名な事実です。日敬上人は災難にあっている人々を救うために、この板本尊を御自身で背負って、江戸の町に出ては人々に拝ませて、不思議なご利益を授けたということです。
また、御神水については次のように説明している。
寛永の昔、当山第二世の日栄上人が、松の根方に霊泉が湧くのを見て、ここに庵を造ったのです。これが当山の縁起で、今の瑞龍の松と御神水がそれです。
帝釈天の出現といい神水の湧出といい、霊験あらたかであることが境内では肌に感じられる。寅さんに連れられてきた私も合掌して深々と礼拝するのであった。