バスが長崎市内に入るとガイドさんが、如己堂の永井隆博士のことを語り始めた。『この子を残して』の一節を朗読してから、静かに「長崎の鐘」を歌い始める。戦後ほどない古い曲だが、心に訴えかける力を失っていない。サトウハチローの詩に古関裕而の曲という昭和を象徴する二人の名曲。古関は甲子園の「栄冠は君に輝く」の作曲者で、こちらも同時期の作品だ。彼がメロディに乗せた希望は、今もこれからも決して色あせることがない。
長崎市上野町に「如己堂」がある。昭和23年に建てられた二畳一間の小さな家である。
永井博士は医師であり、研究者であり、被爆者であり、キリスト者であり、作家であった。『長崎の鐘』は被爆とその後の救護活動の様子を記した随筆で、出版と同じ年にレコード化され、藤山一郎が歌って大ヒットした。『この子を残して』には、二人の子どもを残して逝かねばならぬ悔しさと、当時多くいた孤児の問題について信仰面からどう向き合うかが綴られている。
随筆は余情豊かな筆致で人々の胸を打った。歌謡曲は戦争の惨禍に苦しんだ全国の人々に共感された。永井博士は平和の尊さの伝道者として、今に至るまで人々から敬愛されているのである。長崎市教育委員会の説明板を読んでみよう。
長崎市名誉市民、永井隆医学博士の病室兼書斎。
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻した。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病、余命3年」と宣告された。
その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまった。
しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆した。
博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信し続け、昭和26(1951)年5月1日、43歳で永眠した。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっている。
新約聖書マルコ伝12章には、律法学者から最も大切な戒律について問われたイエスの言葉が、次のように記されている。
第一は是なり「イスラエルよ聴け、主なる我らの神は唯一の主なり。なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛すべし」
第二は是なり「おのれの如く汝の隣を愛すべし」
此の二つより大いなる戒めはなし。
宗教が神への信仰を第一とするのは当然だが、隣人への愛を教義として明示したことは注目に値する。宗教から普遍的な倫理が生まれているのだ。キリスト教が世界宗教たりえた所以はここにある。
永井博士が被爆後の苦境にあって救護活動に積極的に取り組んだことは、まさにイエスの教えの実践であった。如己堂が恒久平和と隣人愛の精神の象徴だという説明が、本当によく分かる。
如己堂を修学旅行生が入れ代わり立ち代わりのぞき込んでいる。築70年以上となった小建築はその意義が決して古くなることはない。平和と愛の問題は、常に現在の問題だからである。新しい世代が過去に学び、希望に満ちた未来を創造することを信じてやまない。