よく何周年記念というイベントがあるが、1300年ともなると壮大で、遠い目をして悠久の歴史に想いを馳せたくなる。平城遷都1300年祭である。この年の夏休みの終わりごろに行った。けっこう賑わっていたように記憶しているが、あまりにも広くて下の写真ではずいぶんと静かな風景に見える。
奈良市の特別史跡平城宮跡に「第一次大極殿」がある。
近くには「第二次大極殿跡」がある。これは聖武天皇が「彷徨五年」から帰ってきてからのものである。
第一次大極殿を遠くに撮影した場所から振り返ると「朱雀門」がある。この広い空間を平城京だと勘違いしてしまいそうだが、ここは今でいう皇居および官庁街であって、平城宮という。朱雀門の南には朱雀大路が3.7キロメートル続き、平城京のメインストリートをなしていた。
この野原のような場所は、かつて日本の中心であった。小中華を具現化する空間であった。『鑑真幻影-薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』(中村明蔵、南方新社、2005年)で次のような記述を見つけた。
つぎに、八世紀前半における南島と律令国家との関係にふれておきたい。前世紀末から日本的中華国家の確立を標榜していた朝廷では、支配領域の外周に異属を配置して、その異族が朝貢してくる体制を企図していた。その異属とみなされた代表例が、八世紀初頭までは蝦夷と隼人であったが、隼人の地域に国制がしかれて、薩摩国(当初は唱更(しょうこう)国という)・大隅国が七一三年までに成立してくると、隼人に代わって南島人が登場するようになってきた。正月元日朝賀の儀における蝦夷と南島人による方物貢上は、それを端的に示している。
霊亀元年(七一五)正月の朝賀の儀はつぎのように記されている。(『続紀』)
春正月甲申の朔。天皇、大極殿に御(おは)しまして朝を受けたまふ。皇太子始めて礼服を加(くは)へて拝朝す。陸奥・出羽の蝦夷(えみし)、并せて南嶋の奄美・夜久(やく)・度感(とかむ)・信覚(しがく)・球美(くみ)等、来朝(まう)きて各方物を貢(たてまつ)る。その儀、朱雀門の左右に鼓吹(くすい)・騎兵を陳列す。元会(ぐわんゑ)の日に鉦鼓(せいく)を用ゐること、是(これ)より始まる。
皇太子(首(おびと)皇子、のちの聖武天皇)以下、支配者層の列席した儀式の場で、陸奥・出羽の蝦夷、南島の奄美・夜久・度感に加えて、信覚(石垣島)・球美(久米島)などの各島人が参列して天皇への方物貢上が行われたのである。この儀式が単なる正月朝賀でなく、天皇権力が列島の北辺・南辺におよんでいることを誇示する一種のショーとしての見せ場になっていることは明らかであろう。
この時代に石垣島との通交があったことに驚くが、遣唐使船が南西諸島方面を航路とすることがあったようだから、その方面に住む人々に朝廷が関心を抱かぬはずがない。中国の唐王朝では、玄宗皇帝の開元の治(713-741)が始まり、いわゆる盛唐の時代を迎える。唐をロールモデルとする日本の都で周辺諸地域を従える演出が行われたのも当然だろう。
平城遷都1300年祭ではずいぶんと歩いた。行きは大極殿、帰りは朱雀門が到達目標となるランドマークとして役立った。せっかく来たのだから、お土産も買いたい。せんとくんグッズもよかったのだが、奈良豊澤酒造の「吟醸 朱雀門」が史跡巡りには相応しかろうと思って買い求めた。ラベルの文字は昨夏に亡くなった書道家の今井凌雪先生。朱雀門に掲げられている扁額も先生の筆によるものだそうだ。