明石城は今年、築城400年という節目を迎えた。元和五年(1619)に小笠原忠政が築城した。そして、明石市は市制施行100年でもある。大正八年(1919)に明石郡明石町は市制を施行したのである。本日は明石の周年イベントを祝して、明石の地名発祥の地を訪ねよう。
明石市松江の沖合いに「赤石」があるそうだ。写真の石はレプリカである。
「あかいし」と「あかし」は似ている。レプリカの赤石には鹿のレリーフがあるが、どういうことだろうか。説明板を読んでみよう。
赤石のいわれ
ここ松江の浜から約二十メートル沖の海底にたて横一・五メートルほどの赤い巨石があって赤石とよばれ、陰暦三月三日の大旱潮には岸から石の赤い色が見えるといってにぎわったものです。あかしの地名がこの石から名付けられたといわれるのは、この石が信仰に関係があるからでしょうか。古代には赤石と書いてあかしと読みました。林から小豆島に続く砂瀬は鹿が往き来をしたからだといわれ、その鹿が矢で射られたのでその血が染まって赤い石になったともいわれます。
神戸新聞明石総局『あかし昔ばなし』という地元の本には、次のような証言が記録されている。
私の小学校のころ、昭和のはじめのころですが、赤石は海岸からほんの二、三メートルのところに顔を出してました。
赤石はむかしからの名所で、その赤さを説明するために鹿が射られた伝説が語り伝えられてきたのだろう。今は美しい海が広がるばかりで、小豆島との間を鹿が往来したなど想像すらできない。
これとは少々異なる伝説もある。
明石市林二丁目の宝蔵寺に「雌鹿の松」がある。これを示す石碑と歌碑もある。松は二代目とのことだ。
先に紹介した赤石は、「鹿が矢で射られたのでその血が染まって赤い石になった」という由来であった。この雌鹿の松にはどのようないわれがあるのか。説明板を読んでみよう。
「めじかの松」の碑
一、昔、小豆島から渡ってきた雌鹿が沈んだところが赤石となり、その後、この場所に若松を植えて供養したのがめじかの松である。
一、初代の松は、東隣の若宮神社まで見事な枝をはっていたが、戦災(昭和二十年)で寺とともに焼けてしまった。
一、歌碑は清香が詠んだ歌を、玉木愛石が書き、それを彫ったものである。
しきかえる なみにとはばや はりまがた めじかの松の 千世のむかしを
明石市教育委員会
松は雌鹿の供養のために植えられたようだ。「雌鹿が沈んだところが赤石となり」とは、どういうことか。境内に伝説を紹介している説明板があるので読んでみよう。
雌鹿の松
むかし、林村の浜におささという名の美しい雌鹿が住み、四国の小豆島には元気な雄鹿が住んでいた。二頭は仲むつまじい夫婦だった。
潮が引くと、小豆島まで浅瀬が浮かび上がった。この時を利用して、おささはピョンピョンと浅瀬を往復した。天下の好漁場「鹿ノ瀬」という名は、ここから付けられた。
ある嵐の日、おささは漁師の起した過ちで命を落とした。このためか、嵐は何日もつづいた。怖くなった漁師は、神仏にお祈りをした。満願の夜、「お前が殺した白鹿は赤石となり、うらんでいるぞ。早く弔ってやれ」とお告げがあった。
漁師はさっそく翌朝、宝蔵寺の境内に若松を植え、ねんごろに霊を慰めた。
嵐は、ぴたりと止んだ。
この松は「雌鹿の松」と呼ばれ、空を隠してしまうほど大きくなっていたが、昭和二十年(一九四五年)七月の空襲で焼け崩れてしまった。今は二十三年に植えた、二代目の松である。
海門山宝蔵寺
赤石は、鹿の血で赤く染まったのか、白鹿が赤石と化したのか。鹿に危害を加えたのは猟師なのか、漁師なのか。語り継いでいるうちにストーリーが変化したのだろう。鹿殺し伝説の原型は『日本書紀』にある。巻第十一「仁徳紀」三十八年七月条に記載されているので読んでみよう。
俗(ひと)の曰く、昔一人有りて、菟餓(とが)に往き、野の中に宿れり。時に二鹿傍に臥す。鶏鳴(あかつき)に及ばむとして、牡鹿牝鹿に謂りて曰く、吾れ今夜夢みらく、白霜多く降りて吾が身を覆ふとみつ。是れ何の祥(さが)ぞ。牝鹿答へて曰く、汝の出行(あり)かむとき、必ず人の為に射られて死されむ。即ち白塩を以て其の身に塗ること、霜の素(しろ)きが如き応(こたへ)なり。時に宿れる人心の裏に異(あやし)ぶ。未だ昧爽(あけぼの)に及ばざるに、狩人有りて、以て牡鹿を射て殺しつ。是を以て時人の諺(ことわざ)に曰く、鳴く牡鹿(しか)も相夢(いめあはせ)のままにと。
菟餓野(とがの)は摂津だから、播磨の明石ではない。ただ、鹿殺し伝説が古代からあったことは確かだ。本日紹介している赤石はどうだろうか。『日本書紀』巻第廿五「孝徳紀」大化二年正月朔日条に、次の記述がみられる。
凡そ畿内は、東は名墾(なはり)の横河(よかは)より以来(このかた)、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、(兄、此をセと云ふ)、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)より以来、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(あふさかやま)より以来を、畿内国(うちつくに)と為す。
明石は赤石と書いていたようだ。しかも畿内の西端だとされている。地名の由来を伝えている『播磨国風土記』を調べたいところだが、明石郡が欠けているために詳らかにできない。鹿殺し伝説も赤石の地名も古代から現代につながっている。問題は海の底にあるという本物の赤い石が古代からあったかどうかであるが、これだけは確かな証拠がない。