「塔の上なるひとひらの雲」と結ぶ秀歌がある。薬師寺の美しい三重塔を見上げれば、澄み切った青い空に一片の雲が浮かんでいるではないか。清々しい秋の空気を感じる歌だ。感動のゴールの決め手は浮かぶ雲だろうが、アシストしたのは三重塔である。そこに塔がなかったなら、同じ雲を見たとて、なんとも感じなかっただろう。
久米郡久米南町下弓削の蓮久寺門前に「弓削廃寺塔心礎」がある。町指定重要文化財である。
心礎ばかりを見て、ない塔は見上げようとせず、雲のようすも記憶にない。7世紀末から8世紀初めごろには、確かに塔があったらしい。いや塔ばかりか、弓削小学校のあたりにかけて伽藍が広がっていたと考えられている。『久米郡誌』の蓮久寺の項には、次のように記されている。
抑々当山は往古弓削部の菩提寺であって地方有名の巨刹である。元来此弓削部と云ふのは、古から此地に住み上古弓を造る事を職として居た部民で伴造弓削の連之を統轄して年々弓を造って貢物として居たものである。天平勝宝年間肩野物部連乙麿深く仏法を信じて此霊地に数多の堂塔を建立した(当寺の門前に塔の柱石が尚存して居る。附近の地名は塔石の元と云ふ)。
物部氏が登場した。587年物部氏滅亡、645年蘇我氏滅亡という単純な話ではなく、古代の巨大氏族は各地で生き延びていた。天平勝宝年間とは749年~757年に当たる。肩野物部氏は今の交野(かたの)市のあたりに勢力があった一族らしい。
乙麿さんは美作地方にもゆかりが深く、山陽新聞社『岡山県歴史人物事典』にも掲載されている。関係部分を読んでみよう。
かたのべのおとまる 伽多野部乙丸
中山神社では乙丸によって大穴持(大己貴おおなむち)神が祭祀されていたが、鏡作神を奉ずる勢力の贄賄㹳狼神(しろごろうしん)によって駆逐され、久米南条郡の弓削庄(一説には同郡の香美庄)へ退去し鹿2頭を贄として鏡作神へ奉じ、贄賄㹳狼神を志呂(しろ)神社へ祭祀したと伝える(「中山神社史料」、『津山市史』)。また現久米南町の仏教寺は肩野物部乙麻呂によって713年(和銅6)に創建されたという(『作陽誌』)。
香美庄は香々美庄の誤りである。人名の表記や読みは若干異なるが同一人物を指しているだろう。乙麿さんは中山神社での勢力争いに敗れて久米南町に退き、弓削廃寺や仏教寺を建立した、ということになる。この地方の開発者であろうか。
蓮久寺門前の塔心礎を訪ねると、古代豪族の物部氏の一族に出会うことができた。物部守屋は聖徳太子の敵だから、どうもイメージが芳しくないが、乙麿さんは美作地方ではけっこう親しい存在だ。今はない層塔を思い浮かべながら空を見上げ、乙麿さんの遺徳を偲びたい。
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