古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。これに続いて「どこに新しいものがございましょう。」と言うのだが、今や新しいものだらけで、古い私は古いものに内在する安心感を抱きしめるばかりである。
府中市上下町上下に「翁座」がある。国登録有形文化財である。
「映画と実演」の文字を読み取ることができる。映画も演劇も上演されたのだろう。説明板を読んでみよう。
翁座
この建物は、大正時代に建てられたもので、芝居・映画の上演などが行われる劇場として賑わいました。当時の面影をとどめる建物としては、県下唯一の劇場です。大友柳太郎、高田浩吉、鶴田浩二らも出演しました。
上下まちづくり協議会
子どもの頃に名前を聞いた名優だが、正直よく知らない。わずかに鶴田浩二さんのセリフが思い出せるだけだ。ただスターの来演に湧いた当時を偲べば、都会と地方の格差は小さかったことが想像できよう。レトロではなくモダンだったのだ。
「旧瀬川百貨店」である。
重厚な造りが老舗らしさを演出している。衣料品や日用品など、百貨店の名のとおり何でも扱っていたという。説明板を読んでみよう。
旧瀬川百貨店
建築年時は不明であるが江戸末期から明治初期にかけて建築されたものと推測できます。
外観は、黒漆喰塗込壁となまこ壁、格子戸など重厚なつくりとなっています。明治一五年には「共同成章社」を設立し、備後地方二番目の金融機関として繁栄しました。
上下まちづくり協議会
備後地方最初の銀行は、明治11年に設立された尾道の第六十六国立銀行である。共同成章社はこれに次ぐ金融機関で、尾道と上下に資産家が多かったことが分かる。共同成章社は明治33年に解散するが、その資金は備後銀行(府中)の設立に充てられた。この銀行は藝備銀行(広島)に買収され、現在のひろぎんへと発展していくこととなる。
「角倉(すみくら)家外門」である。
角倉家は地元有数の素封家で、明治45年に角倉銀行を設立し、大正9年に藝備銀行の発足に参加した。門は重厚な美しい。説明板を読んでみよう。
角倉家外門
文政7年(一八二四)の建築で、四脚・桜門となっています。二階には見張り小屋がもうけられ、窓は対比的な形の丸窓となっています。
寄棟の屋根は桟瓦葺、背の高い棟飾りには雲と波が描かれ、中央には家紋が入っています。その上には二対の鯱(しゃち)とともに当時の角倉家の栄華が忍ばれます。
上下まちづくり協議会
桜門は楼門、忍ばれは偲ばれが正しい。丸窓はスタイリッシュな現代建築のようであり、反対側にはイギリスパンのような山型の窓がある。訪れたのはちょうど「天領上下ひなまつり」の期間中で、旧角倉邸の庭園も公開されていた。
お屋敷の向こうに十字架の立つ塔が見える。行ってみよう。
「上下教会」である。
和洋折衷な教会が町並みに映え、知的な彩りを添えているように見える。説明板を読んでみよう。
広島県文化百選
上下教会
上下町は明治二十九年からキリスト教の日曜学校がおかれていました。
この建物は、明治時代当時の上下財閥角倉家の倉として建築され、昭和二十五年上下キリス教会(滝口忠一牧師)が入手し改造したもので、広島県文化百選(建物の部)に選定されています。
ご案内制作 ふる里を語る会
キリス教会ではなくキリスト教会だろう。角倉邸に近接しているのは、かつてお屋敷を構成する倉だったからだ。今も日本最大のプロテスタント教会である日本基督教団に属し、敬虔な祈りが捧げられている。
「旧警察署」である。
見張り櫓が印象的だ。説明板を読んでみよう。
明治時代の警察署
上下町に残る明治時代の数少ない建物、屋根の上には、火の見やぐらも当時のままの姿で残っている。
明治の文豪、田山花袋が上下を訪ねたときの印象を書いた紀行文「備後の山中」にもでている。
ご案内製作 ふる里を語る会
なんと田山花袋が登場した。文豪はこの警察署をどのように描写しているのであろうか。『花袋全集』
警察署が町の曲り角のやうなところにあつて、そこから商家の軒が両側に続いた。笠だの糸立だのを売つてゐる家もあれば、乾物類を店に並べてゐる家もあつた。
実際、メインストリート銀山街道の東入口に位置しており、今も当時の雰囲気を思わせる商家の軒が続いている。上下はその名のとおり上る者も下る者も、ここで足を留め、しばしの休息をとったであろう。さらに南北の生活圏の結節点として、取引がさかんに行われたであろう。その名残を今見ているのだ。
古い建物だとお思いでしょうが、古い建物ほど新しいコンテンツを求めるもんでございます。どこに古いものがございましょう。白壁商家はカフェとなり、今の世の中、右も左もスタイリッシュじゃござんせんか。