山城はふつうの山にしか見えないが、頂部には必ず削平地がある。小規模な砦であれば、木が茂って山容を捉えにくい。ところが、本日紹介する激しい争奪戦が行われた戦国末期の山城の削平地は、遠目にも平らで公園のように広いのである。好天に恵まれたこの日、私は西方から尾根筋をたどって城に向かった。
尾根筋はちょっとしたハイキングコースで気持ちよく歩けるが、登城口の蟻ヶ峠からは山城らしい急勾配となる。それを登り切ったら、視界の開けた別世界が待っている。
総社市山田に「鬼ノ身城跡」があり、市の史跡に指定されている。写真は主郭で一ノ壇という。
三等三角点「山田」があり、標高は284mである。神社は「諏訪神社」という。この城をめぐってどのようなドラマがあったのか、説明板を読むことにしよう。
鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。
5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)年にむほんを起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣して来ました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3000騎を配置しました。
しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵(に)よる総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。
上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守隆家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
平成22(2010)年10月 総社市教育委員会
三村氏と毛利氏の戦いを「備中兵乱」といい、ここに記された鬼ノ身城争奪戦もその一環である。三村氏は、本ブログ記事「生き残れなかった戦国大名」や「戦国時代の国防女子」で紹介したように、備中成羽及び松山を拠点とした戦国大名で、広範囲に勢力を有していた。
当主三村元親の弟元範は新見の楪(ゆずりは)城主、妹婿の上野隆徳は玉野の常山城主、そしてもう一人の弟実親が総社の鬼ノ身城主であった。これら三村勢の離反を聞いた毛利氏は、小早川隆景を総大将として大軍を派遣する。その結果、鬼ノ身城での戦いは上記のとおりとなったのである。
毛利勢の手に落ちた鬼ノ身城は、「毛利一族、四本目の矢」(安芸高田市歴史民俗博物館平成30年度秋季企画展「安芸宍戸氏」)と呼ばれた安芸宍戸氏の当主隆家に与えられた。堅固な城は備中における毛利支配の象徴だったに違いない。改めて郭を巡ってみよう。
西側の急斜面では、石垣を見ることができる。石垣の技術は15世紀後半に発達した。地域の緊張感が高まる中で、城郭を強固にしたのだろう。
主郭から東方面の眺望である。上方へと続く山陽道が視界に入る。
主郭から南方面の眺望である。かすかに瀬戸内海も見える。かつて玉島湊からこの城のふもとを通過して備中松山へと玉島往来が延びていた。現在の県道54号倉敷美袋線である。道沿いからは宍戸氏に関係する屋敷跡が発掘されたという。(『総社市埋蔵文化財調査年報9(平成10年度)』)つまり鬼ノ身城は、備中の南北交通を掌握できる重要な軍事施設だったのだ。
山城はアクセスしにくい場所にあり、登城に容易でない地形をしていることが多い。こんな場所に城を築くなんて、と不思議に思うことがあるが、城の存在理由は必ずある。まさに登城困難であることが防御施設として優れているし、何よりも眺望のよいことは欠かせない立地条件だろう。
近世の城は支配の象徴であることから、城下町からよく見える小高い丘に壮麗な天守を築いた。これに対し戦闘が激化した中世末期の山城は、軍事面で実に機能的だった。にじむ汗をぬぐいながら苦労して登ったならば、すばらしい眺望が待っている。ただし400年を経た今は、木が生い茂って見通しが利かなくなっている場合もあるから、登ってみなければ分からない。