軍事施設がいつどの場所にどこを向いて設置されたかに着目すると、我が国を取り巻く当時の状況がよく分かる。太平洋岸に風船爆弾の基地が設置されたのは遥か彼方のアメリカを攻撃するためだったし、イージス・アショアが日本海側に配備されようとしたのは北朝鮮の脅威に対抗するするためであった。
本日は幕末に日本海岸に築かれた砲台を紹介する。どこに対抗し何を守ろうとしたのだろうか。朝日のまぶしい海岸からのレポートである。
鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬に国指定史跡の「鳥取藩台場跡」として一括指定されている史跡の一つ「橋津台場跡」がある。
鳥取藩台場跡のうち最も美しい「由良台場跡」についてはすでに紹介している。そのイメージで橋津台場を見ると、どこがお台場なのかよく分からない。説明板を読んでみよう。
国指定史跡 鳥取藩台場跡 橋津台場跡
(指定年月日 昭和63年7月27日)
台場とは、江戸時代末期、幕府や諸藩が外国船からの防衛を目的に築いた海岸砲台で、鳥取藩も文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけて9箇所の台場を築造した。いずれの台場とも、設計に西洋砲術の専門家が携わっており、西洋式の城塞プランが取り入れられている。このうち、橋津、由良(北栄町)、淀江(米子市)、境(境港市)の4箇所の台場跡が昭和63年に国史跡に指定され、その後、浦富台場跡(岩美町)と赤崎台場跡(琴浦町)が追加指定された。
橋津台場は、年貢米を納める藩倉があった重要港湾「橋津湊(はしづみなと)」の防衛を目的に、藩命を受けた大庄屋椿岩助(つばきいわすけ)ら地元農民の労働奉仕によって造られた。幕末の絵図などによると、築造時は由良台場と同じ6角形の平面形をとっていたと推定される。海側の土塁は波の浸食によって失われ、現在残っているのは、後方土塁、目隠し土塁、両側面の土塁の一部である。橋津台場には六尾(むつお)村反射炉(北栄町)で鋳造された大砲が、当初は4門、後に6門配備されたようであるが、実戦に用いることのないまま明治維新を迎え、その役割を終えた。
このように、橋津台場跡は、幕末の地方の社会情勢を象徴する遺跡として非常に価値が高い。
平成28年3月 鳥取県教育委員会
海に面した側が失われているという。図面を見ると、写真左の松が並んでいるのが後方土塁、その右に1本だけ松があるのが目隠し土塁ということになる。右側の立派な土塁は海岸の堤防である。
イージス・アショアを秋田市と萩市にしたのは、日本全土を最も効率よく防護できるからだとされたが、けっこう杜撰な選定で地元の理解が得られず断念に追い込まれた。橋津台場の場合は住民説明会どころか農民は労働奉仕に駆り出されたようだが、いったいなぜ橋津なのか。
説明板には「年貢米を納める藩倉があった重要港湾」を守るためだとしている。その藩倉が現存しているというので行ってみた。
湯梨浜町橋津に県指定保護文化財の「橋津の藩倉」がある。
重厚な造りで迫力がある。暑い夏でも内部の温度はそれほど上がらないのではないか。説明板があるので読んでみよう。
橋津の藩倉
寛永九年(一六三三)国替えにより、池田光仲が岡山から鳥取へ入国し、三二万石鳥取池田家の藩政が始まりました。この辺りは鳥取藩の年貢米を収納する御蔵が設置されていた所です。鳥取藩政資料の中に寛永十二年橋津御蔵の記載があり、藩政の始まりとともに創設されたものでしょう。
現存している御蔵は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の三棟ですが、文化五年橋津御蔵絵図(一八〇八)には御蔵十四棟と計屋(はかりや)一棟が描かれ、建坪六一二坪を数えます。
橋津御蔵は、鳥取藩の九つの灘蔵の中で最大の規模で、約五万俵の米を収納し、主として大阪へ廻米され、藩財政を大きく支えていました。
古御蔵には、天保十四年(一八四三)建替の棟札があり、全国的にも史料価値の高い建物として注目されています。
橋津の藩倉は、江戸時代の税制・経済・海運史研究に関わる貴重な存在といえます。
平成十五年三月 湯梨浜町教育委員会
写真の建物は「古御蔵(こおくら)」である。この地の藩倉は約五万俵を収納して、大坂で売り捌いていたという。ウクライナのオデーサ港は穀物輸出の拠点であり、世界の食糧安全保障の観点から保護されなければならないことは、侵略するロシアでさえ理解している。
さすがに橋津はそこまでではないが、鳥取藩にとっては生命線となる重要港湾であった。何が何でも外敵の侵入を防がねばならない。そう考えた藩当局は最新技術を取り入れて砲台を設置した。ただし、もう一つの説明板を読んでみると、ちょっとした裏事情があったことが分かるのだ。
国指定遺跡
鳥取藩台場跡 橋津台場跡
昭和六十三年七月二十七日指定
幕末、日本近海には通商を求める異国船がさかんに出没するようになったが、幕府は鎖国を徹底し、海岸防備に力を入れていた。鳥取藩でも、砲台場を各所に造って防備を固めるよう準備に取り掛かっていたが、藩財政逼迫の折、計画は遅延していた。
こうしたとき、大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊が、文久三年(一八六三年)英国船を砲撃するという事件が起きた。藩では報復をおそれ、急きょ大誠村瀬戸(現在の北栄町瀬戸)の竹信潤太郎に相談し、農民の協力を得ることに成功。由良台場、橋津台場を次々と築造し、文久三年中に藩内八箇所の台場が完成した。この台場築造に協力した人数は、延べ十七万五千人といわれている。
現在、鳥取県内の台場は由良台場がほぼ完全な形で残り、ついで浦富、橋津の台場がおおよそ原形を留めている。
橋津台場は築造当時の図面が現存しておらず、また、日本海の波浪に侵食され約三分の一が流出してしまっているため、本来どんな形をしていたのか長らく不明であったが、明治二十五年頃の台場の形をあらわした地図が見つかり、由良台場と似通った形状であったことが判明した。
湯梨浜町教育委員会
大坂天保山で鳥取藩がイギリス船を砲撃したという。文久三年(1863)六月十四日のことである。この年、攘夷の動きは最高潮に達し、圧力に屈した幕府は5月10日を攘夷決行日と定めた。そして、急先鋒の長州藩は下関海峡でさっそくアメリカ船に、少し後にフランス艦に対して攘夷を決行し、大いに意気を上げていたのである。鳥取藩の攘夷もそのような中で行われたのだ。
アメリカやフランスは長州に対して報復を行ったことから、鳥取藩もその危険性を感じたのだろう。その年のうちに8か所の台場を完成させたというから、その切迫感が伝わってくる。
幸いなことに、台場に設置された大砲が火を吹くことはなかった。我が国が欧米列強に侵略されなかったのは、鳥取藩のように防衛の気概を見せたからか。列強が牽制し合っていたからか。それとも、たまたまだったのか。
ミサイル迎撃の態勢は整わず、「対話と圧力」とも言わなくなった。中国、ロシアに北朝鮮と核保有国でありながら、信頼関係が醸成できていない国が我が国の近くにある。困ったらアメリカが何とかしてくれるだろうと楽観視してよいのだろうか。