試みに「岡山県 人気 観光地」で検索すると、じゃらんのTOP10がヒットした。第1位から順に紹介すると…
倉敷美観地区、大原美術館、岡山後楽園、蒜山高原、瀬戸大橋、三井アウトレットパーク、吉備津神社、アリオ倉敷、岡山城、白山神社
である。倉敷勢がかなり強いようだ。
時はさかのぼって、昭和十年(1935)のこと。山陽新報社は投票により「岡山県十勝地」を選定した。こちらも第1位から順に紹介すると…
鹿久居島、吉備津彦神社、天王山、高松常昌院滝、少林寺山、井原の桜、笠岡古城山、福山城址、酒津水門、三野公園
である。吉備津彦神社と吉備津神社が入れ替わったのが面白いが、同じ場所は一つもない。
笠岡市笠岡の古城山公園に三等三角点「古城山」がある。
標高は68.26mである。
三角点のすぐ下に「古城山」と刻まれた大きな石碑がある。「一成書」ともあるから、岡山県民の誇る良識派宇垣一成の揮毫だと分かる。建碑は昭和十一年三月。大命降下にもかかわらず組閣に失敗するのは、その翌年のことであった。
「岡山県十勝地」の鋳銅標識板が側面に取り付けられている。人気の秘密は何だろうか。説明板を読んでみよう。
古城山公園
伝承
標高約七十米。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。
別名、「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」と言われた。
笠岡城
弘治年間(一五五五~一五五八)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城。その後村上景広、毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官小堀新助が入城。
元和二年(一六一六)池田備中守長幸の居城。
元和五年(一六一九)松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。
明治四十年(一九〇八)末新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。
昭和三十一年、笠岡市の都市公園となる。
笠岡市都市計画課
かつて城が築かれていたことから分かるように、見晴らしのよさは大きな魅力である。『岡山県中世城館跡総合調査報告書-備中編‐』の「笠岡城跡」の項には、次のように記されている。
元徳年間に陶山藤三義高によって築城と言われ、永正年間ごろまで同氏が在城したようである。大内氏が当地を支配していた時には、その配下の井上伯耆守春忠が城主であった。
もとは笠岡の有力国人陶山氏の本拠地だったようだ。井上春忠は小早川隆景の有力家臣であり、その後は村上海賊の勢力下にあったらしい。村上隆重は村上水軍の総帥武吉の叔父にあたる。景広は隆重の子である。
毛利元康は元就の子で厚狭毛利家の祖となった武将である。村上景弘から毛利元康へと城主が交代したことについて、『笠岡町誌』(大正六年)の「笠岡城趾」の項には、次のように記されている。
小田物語に毛利大蔵卿元康は備後深津の城主たりしが笠岡の城を望まるゝに付慶長四年村上弾正景広を芸州小畑へ千石にて所替へさせたり是を村上領とて笠岡八ヶ村を知行し毛利へ千石の役をつとめ来れる故其跡へ元康移り住て魚渚を西浜へ所替させ猟師ども打寄要害の為に城を拵んと企て侍れども其年関が原の役起りて其儘に止けりとなん
慶長四年は1599年。翌年の関ヶ原で笠岡は小堀新助こと正次の領地となった。同時に正次は備中国奉行として徳川領の管理を命ぜられ、松山城を預かった。正次が慶長九年(1604)に没すると、遺領を子の政一が継いだ。文化人として知られる遠州である。業務多忙により笠岡に来ることはほとんどなかっただろう。
鳥取藩主池田長幸は備中松山に移封されたのは元和三年(1617)。この時、笠岡も松山藩領となった。説明板には「長幸の居城」とあるが、居城なら松山城が適当だろう。元和五年(1619)には水野勝成が備後福山に入封し、笠岡もその領地に組み込まれた。
戦国の世にあっては瀬戸内の要衝として睨みを利かせていた笠岡城。江戸時代後期の行楽ブームで眺望の良さが見直され、近現代は都市公園として多くの人が訪れている。さすがにトップテンに入った戦前ほどではないが、今もファミリーで楽しむことができる人気スポットである。春には桜が見事だそうだ。