ラーメン橋は、ラーメンを食べるためのラーメン箸の間違いかと思ったら、そんな橋が実際にあるという。太い細いとかちぢれとかではなく、がっちりガチガチに剛結合で造られた、いわばバリカタの橋である。橋はピン接合のトラス構造で造られることが多く、幾何学的な三角模様が美しいが、ラーメン構造は実に重厚な印象だ。
岡山県勝田郡奈義町馬桑(まぐわ)に「馬桑ループ橋」がある。中央がπ型のラーメン橋である。国道53号の一部で昭和45年に完成した。延長180mで当時は関西一の規模を誇ったという。橋の右側が智頭方面、左側が津山方面となる。
ループ橋完成以前の旧道が写真のまっすぐな道で、かつては「因幡道」と呼ばれていた。峠に向かう急勾配がずいぶんと緩和されたようだが、黒尾トンネルに向かうこの先の国道53号もけっこうな急坂だ。今では陰陽を結ぶ主要な物流ルートだが、かつてはそこまで重要なルートではなかったらしい。
古くから重視されていたのはもっと東にある志戸坂峠で、海抜が低く積雪も比較的少ないようだ。昭和4年に因美線の物見トンネルが開通すると、智頭と津山は一挙に近くなった。険しく積雪の多い黒尾峠の利用は人々の意識から遠のいてしまったという。
黒尾トンネルの手前から左の旧道を進むと近代の「黒尾峠」がある。第二代勝北郡長の森英太郎が整備したと聞く。トンネルに比べると約100m高い位置にある。
食糧難の時代に奈義の人々は、この峠を自転車で越えて鳥取に魚を買いに行ったり、塩代わりの海水を取りに行ったりしていたという。生活のための道路だったのだ。
江戸時代の峠はさらに44mほど高い位置にあった。近代の峠の手前を左に進むと近世の黒尾峠「雲乢(うんだわ)」があり、「地蔵菩薩座像」がある。
このお地蔵さんに出会えるだけでも、はるばる峠道を登ってきたかいがある。息の上がる旅人を優しい眼差しで見守ってくれる。その由来を説明板で読んでみよう。平成12年に智頭町文化財委員の方が設置したものであるが、少々傷んでいる。
黒尾峠のお地蔵さん由来
此の街道は津山備前往来として通行の盛んな峠で有った文政五年頃因幡で伝染病に流(欠)旅人も村人も薬りは無し非上に苦労したので旅(欠)全と村人の無病息災を祈願して石地蔵を建(欠)運搬するには大変な労力が必要なので特別製の大(欠)を造りモウソウ竹をコロに敷き麻とカズラを使って太い(欠)三本造り曳き上げた土師の郷十日市村から奥の十四ヶ村約百五十名が惣事で出勤した奥早野と栃本の女性は惣出で炊事にあたりたき出しのむすびお茶酒等を負い上て賄ひをした(昼晩の二食付)七日目にやっと安置できたと古文書に記されてあります
地蔵の台座には「文政七年」「作州馬桑村」「因州奥早野村」と刻まれているようなので、1824年に今の岡山県勝田郡奈義町馬桑と鳥取県八頭郡智頭町奥本の人々が発起し、因幡側から一週間かけて運び上げたことが分かる。
「峠を越える」という慣用句は、少しホッとする状況で使われる。まさに峠越えの実感から生まれた言葉だろう。お地蔵さまは険しい坂道を登る旅人にとって目標であった。そのお姿を前にすれば誰もが頭を垂れたに違いない。これまでの感謝とこれから先の無事を言葉にしたであろう。行くも帰るも村まではずいぶん遠い。気持ちも新たに出発したことだろう。
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