秀吉の中国攻めは戦国史のハイライトである。中国の雄毛利氏と畿内の覇者織田氏によるこの対決は、天正五年(1577)の播磨攻めから始まる。当初、播磨の諸将は時局をうまく読んで織田方につく。のちに彼らは寝返ることになるのだが、今はその気配はない。
あっさりと播磨を平定した秀吉は、統治の万全を期すため弟の秀長とともに但馬に向かった。
養父市大薮に「大薮城跡」がある。ここが主郭である。
主郭の向こう側には、尾根を遮断する堀切がある。
南に伸びる尾根上には曲輪が連なっている。
眼下に大薮の集落、田地、その向こうに円山川を望むことができる。川に沿って山陰道が通過している。左方は竹田城のある和田山、右方は八木城のある八鹿である。
泉光寺近くに「おおやぶ歴史の森案内」という説明板が、平成21年11月に大薮古墳群保存会によって設置されている。ここに城跡についても解説されているので読んでおこう。
大薮城跡(天正5年・1557)
集落の北西、塚山古墳の北約500mの尾根上にあります。標高は191m、城域は東西・南北ともに170m。主郭から2方向に6段から7段の曲輪を配置し、堀切・竪堀を要所に設置して守りを固めています。天正5年(1577)羽柴秀長の第1次但馬攻めによって廃城になりました。
冒頭の1557は1577の誤りである。秀吉は上月城討伐に向かい、但馬は秀長に任された。秀長は竹田城に続いて八木城も落としたというから、その中間にある大薮城も当然攻略したことだろう。
戦略的に有利な立地条件でも、実際に戦うかどうかは政治的判断による。殿様が白旗をあげたのに、家来が頑張る意味はない。大薮城はおそらく戦わずして落ちたのであろう。
順調に進むかに見えた秀吉の中国攻め。ところが翌天正六年(1578)、三木城の別所長治が離反し、戦いは膠着状態に陥る。その後長きにわたった中国攻め緒戦の勝利、それが大薮城落城であった。
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