お笑い芸人には芸歴何十年の看板スターもいれば、一発屋で終わった人もたくさんいる。全国放送で見かけなくなった一発屋が地方で活躍している例もある。まったく日の目を見なかった人たちもたくさんいることを思えば、一発でも当てた才能はすごいと思う。むかし録画した「エンタの神様」を見ながら、お笑い界の不易と流行が気になってきた。
神様つながりで話を進めよう。我が国の宗教史に特異な地位を占めるのが流行神(はやりがみ)である。神様は時代を超えた普遍的な存在かと思ったら、意外にそうでもない。7世紀の常世神(とこよがみ)、10世紀の志多羅神(しだらがみ)、11世紀の福徳神、近世の鍬神(くわがみ)、幕末の「ええじゃないか」などがそうだ。
ええじゃないかが流行った幕末には、火が付いたら一気に燃え上がる空気があったのだろう。本日紹介する耳の神様も幕末に誕生している。さっそくお詣りしよう。
津山市加茂町青柳に「青柳の耳塚様」がある。
耳塚、そして津山と聞けば、過去の記事「津山と朝鮮の意外な関係」を思い出す。しかし本日の史跡は、秀吉の朝鮮侵略に関係しない。どのような耳塚なのか、説明板を読んでみよう。
青柳の耳塚様
加茂町大字青柳、白金山の東側、通称クダケ山の一画(町道知和青柳線から東約四〇米)にある。昭和五十三年九月までは現在地の南方約三〇〇米の地点にあったが、ほ場整備実施に伴い、現在地に移転祭祀された。
その由来は遠く現在地の西北約三〇〇米の地点、今も伝えられる藤田(とうだ)屋敷に、藤田(とうだ)弥五郎という人が住んでいた。その妻が病死したので、近くの竹薮に埋めたところ、三、四年の後竹薮の中から、女の泣声が毎夜聞こえるので、死体を発掘してみると、右の耳から左の耳に竹の根が貫いていた。これを取り去って長田高下の麓に葬り替え手厚く祭った。
占う人あり、ここにお詣りすれば、耳病一切にご利益があるとのことで参拝者が多くなり、文久三年四月に湯頭の亀太郎なる人が発企し、浄財を集め、耳王明神として碑を建立したのが、現在の耳塚様である。
今も耳の悪い人が「穴のあいた石を持ってお礼詣りをします」と願をかけて、広く遠くからも参拝しており、願開きに供えられた穴のあいた石の数は碑の周りに山をなす。
地元ではこの地に移転した九月の第一日曜日を例祭日と定め、毎年お祭りをすることとしておる。
全体的にはリアリティを感じるものの、「右の耳から左の耳に竹の根が貫いていた」などということがあるのだろうか。寡聞にして存じ上げない奇怪なエピソードだ。
目からススキが生えた小野小町の髑髏が「秋風のふくにつけてもあなめあなめ」と詠ったという伝説を思い出す。これを聞いた在原業平は「小野とは言はじ薄生いけり」と続けて弔ったという。
「秋風にススキが揺れて目が痛いわ」と嘆く美女の髑髏。あの小町とのあまりのギャップにショックを受けた業平は「小野小町だって? いや、ススキが生い茂っているばかりじゃないか」とつぶやきながら、小町の菩提を弔うのであった。
この伝説に比べて今回の耳のエピソードは、本当にあった怖い話のような印象だ。単に怖い話ならば、人々は忌避して近付くことはなかっただろう。しかし、ここは耳病一切にご利益があるパワースポットとなっている。
つらい出来事に苦しんだ霊は、手厚い弔いによって人々を救う力を得るという。「足の神様となった戦国武将(八浜合戦・下)」で紹介した与太郎神社がそうだ。
ここ耳王明神も同じ。流行神のように登場したが、一過性でなかったことは、塚に奉納されている「穴のあいた石」を見れば分かる。耳を治したいという多くの人の願いを叶え続けている。
つましい暮らしの中で、人の力を超えるものに畏敬の念をもつ。小さな願いにも、心を込めた祈りを捧げる。わずかでも良い結果が見えたら、おかげと感謝し心づくしのお礼をする。信仰心の薄い私には耳が痛い。