東西南北の方位がつく名字はたくさんあるが、そのうち多いのは「北」と「西」だそうだ。それには理由があり、南や東に開けた土地に家を構えたからだという。なるほど、「家の作りやうは夏をむねとすべし」という兼好法師の至言が思い出される。南向きは家が明るいし、西日を避けて東向きにする方が心地よさそうだ。
方位と「條」から成る名字で最も有名なのは「北條氏」だろう。時政、義時が大河に登場し、まさに今が旬の歴史人物である。西條氏はどうだろうか。思い浮かぶのは詩人の西條八十だ。東條氏ならやはり東條英機首相だろう。ならば南條氏は…。
倉吉市和田にある定光寺の墓地に「南條氏一族の墓」がある。
ここに葬られているのは、南條元続(もとつぐ)、南條元忠(もとただ)、南條元秋(もとあき)だと示されている。東伯耆に一時代を築いた戦国大名である。元続は元忠の父で、元秋の兄という関係になる。
元続が天正三年(1575)に家督を継いだ時には毛利氏に属していたが、信長の勢力が伸長するに及んで同七年(1579)、元続は信長につくことを決断する。同八年(1580)には毛利方との戦いによって元秋が戦死、同十年(1582)に居城の羽衣石城も落とされる。それでも、のちに秀吉政権から東伯耆の所領を安堵され、羽衣石城に復帰する。早くから織田方を選択したことが奏功したのだろう。
このまま近世大名として生き残る可能性もあったはずだ。ところが運命はままならない。元続は天正十九年(1591)に病死、まだ13歳だった子の元忠が家督を継いだ。そして、天下分け目の関ヶ原を迎えるのである。『伯耆民談記』巻之第十一河村郡古城之部「羽衣石の城南條伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事」には、次のように描写されている。
天下の諸侯二に分れ、関原の大戦天下向背の決まる所となる。元忠其頃は在国の時なるに大坂より石田治部少輔三成を始め、奉行衆の廻文到来、早く人数を引具し上洛有て、家康公を討伐すべしとの催促也。元忠頓(やが)て家老の輩を集め評議しけるに、廣瀬隼人進み出で「上方への御一味悪かるべし。家康公は天下無双の弓取にして武功といひ門閥といひ旁々(かたがた)以て肩を並ぶる人なし。今にも関東より切て上り給はゞ誰有て鋒先に当る者あらんや。上方の成行を伺ひ、其内に関東へ御使者を以て忠志を通しられ然るべし。」と申しける。津村長門山田越中等も此儀に同意す。然るに山田佐助同心せず、「今度石田が廻文に御幼君の印あり。当家秀吉公の恩沢を蒙ること山嶽の如し。今に及んで幼君を捨奉る道理有るべきや。且西国の諸侯悉く上方へ一味する由なるに、当家独り同意せずば隣国の諸将襲ひ来て城を取り囲むべし。其時家康公遥々東国より後詰の人数を向けらるべきや、落城は必定なり。殊に諸大名は太閤恩沢の輩多ければ、何れも上方へ一味せんこと勿論なり。早く大坂へ馳せ上り進で戦功をあらはし給ふべし。」と云ふ。元忠此議に同し、上方合体の議に定めたり。是れぞ南條十代の家名滅亡の根本なりける。
関東か大坂か、それぞれの主張に道理はある。選択肢はあったのだ。そして結果的に選択を誤ったのである。浪人となった元忠は、よほど秀頼公への忠義心があったからか、大坂冬の陣に馳せ参じる。戦いの最中、寄手で旧知の藤堂高虎から伯耆一国を条件に寝返りを誘われると、すぐさま乗ったというから、虎視眈々と復活の機会を窺っていたのだろう。
ところが、この目論見は城内に露見し、捕らえられて切腹させられてしまう。「裏切りの伯耆士(ほうきざむらい)古畳(ふるだたみ)南條あれど役に立たばや」とまで言われる始末であった。しかしながら、チャンスをものにしようと諦めることない元忠の生き様は、もっと称賛されてしかるべきではないか。
南條氏はここに滅んだように見えるが、元続と元秋の兄弟に元忠の後見を務めた元清がおり、その子の宜政(よしまさ)の系統が旗本となって南條の家名を存続させた。実はこの宜政も大坂に籠城していた。命運は尽きたかに思われたが、次のような事情で脱出に成功したという。『寛政重修諸家譜』巻第千三百五十八より
豊臣秀頼につかへ、大坂城にこもり、城陥にをよびすでに自裁せむとせしに、水野日向守勝成が従軍の輩たすけ来りて妻子等を伴い去りしかば、宜政も囲を遁れ出で、これより暫らく勝成が許に寓居す。宜政が妻は水野東市正忠胤が女にして勝成が姪女たるにより、このことに及びしなり。
そして子の宗俊にも人脈は幸いした。
さきに母忠胤が女天樹院御方につかへし所縁により、天樹院御方の請せたまふのむね御許容ありめし出され、清揚院殿に附属せられ、桜田の舘に於て書院番をつとめ、後小姓組の組頭を歴て書院番の頭にすゝむ。
天樹院はあの有名な千姫。清揚院殿は6代将軍家宣の父綱重である。こうした運と縁、そして本人の生き延びようとする強い意志のおかげで、南條氏は家名存続に成功したのである。ヒロイズムは物語の中だけで十分だ。