災害は過去に学べ、と災害史の研究が進んでいる。ただ知れば知るほど、我が日本が災害列島であることに不安がよぎるものの、それを乗り越えてきた先人の努力に勇気をもらう思いもする。本日は明和七年(1770)の大旱魃とその影響に注目したい。
この年の旱魃については、菅茶山による文政期の随筆『筆のすさび』に象徴的なエピソードが記録されている。
明和庚寅の大旱(ひでり)に、宇治川を小児かちわたりするほどに、水涸しに平等院の上より鹿飛び迄、両岸皆石にて、種々の形をなし、魚虫鳥獣の形、皆そなはると那波魯堂先生の記にあり。京より遊観するもの多く、川中に処々茶酒の店など出だしてにぎはひしとぞ。
明和庚寅は明和七年のこと。茶山はその50年後くらいに、これを書き留めた。宇治川が干上がって子どもが歩いて渡り、奇岩を見物する客のために、川の中に茶店が登場したという。
このエピソードだけなら面白いが、それくらいの大旱魃ということは、農業には多大な影響があっただろう。そして、収穫はないわ課税はあるわで苦しむ農民は、黙っていられなくなるのだった。
笠岡市笠岡の高龗(たかおう)神社に「義民百五十年記念碑」がある。大正七年(1918)建立で、揮毫は後に首相となる犬養毅である。
説明板がないので、まずは碑文を確認しよう。
久兵衛義兵衛両義民百五十年記念
一代義心両間正気
犬養毅書
義民の名前が久兵衛さん、義兵衛さんだと分かる。二人の墓碑は別の場所にある。行ってみよう。
笠岡市富岡の富岡四ツ堂に「義民慰霊碑」があり、地蔵尊を頂いている。
ここにも説明板はないので、碑文を観察することにしよう。正面には次の文字がある。
願主地福寺栄厳
地福寺の栄厳和尚が発願して建立したのものである。
向かって左側側面の刻字である。
仁王堂町
俗名久兵衛
明和九壬辰天
向かって右側側面の刻字である。
六月十三日
川部屋町
俗名義兵衛
明和九年六月十三日は命日を示す。
背面の刻字である。
旭山照空
理諦信士
旭山照空は久兵衛、理諦信士は義兵衛の戒名だという。二人が主導したとされるこの一揆は「笠岡小作騒動」とも「種麦事件」とも呼ばれる。何があったのだろうか。原因は冒頭で紹介した明和の大旱魃である。
この夏は6月から9月にかけてさっぱり雨が降らなかったようだ。田畑の作物は枯死し、枯れなかったイネは穂を出さなかった。不安が広がる中、前年も旱魃だった備後では、安那郡の農民が、小作地の加地子免除・借銀の年賦払等を福山藩に願い、一揆が発生した。事態はたちまち福山藩各地に波及し、芦田郡村々の庄屋宅等が打ちこわされた。神辺本陣の菅波家日記(8/24)には、そう記録されているという。
これに影響を受けたのが隣接する天領笠岡代官所配下笠岡村の小作人たちだった。種麦の貸与を地主へ願い出ようと9月8日夜、百余人が威徳寺横の天満神社に集まり協議した。そして11日朝、仁王堂町に集合して地主宅に向かおうとしたところを一網打尽に捕縛された。
当時の代官は野村彦右衛門正名(まさな)。一揆直前の明和七年八月に、倉敷代官から転じて笠岡代官となった。有能な官吏だったのだろう。なめてもらっちゃあ困る。そんな思いが厳罰の処置につながったのかもしれない。
近年我が国では、一揆のような大衆運動は見られなくなってしまったが、米騒動ならこの夏に発生した。大正、平成に続く令和の米騒動と呼ばれている。昨夏の猛暑による米不足に加え、南海トラフ地震の臨時情報が出された際のパニック買いが原因という。
南海トラフは動くことなく収穫の秋を迎えて騒動は収まったが、米の価格は高騰したままだ。今までの米が安すぎたのだという見方もある。いずれにせよ今回の米騒動は、8月8日の日向灘を震源とする地震が発端だった。臨時情報は一週間で解除されたが、自然災害と人間の騒動は近しい関係にあることを実感した出来事であった。