後醍醐天皇の皇子たちは各地に転戦し、南朝の皇威を揚げようとした。遠江の井伊氏のもとに身を寄せた宗良親王もその一人だ。
親王は井伊氏の娘、駿河姫を妃とする。戦いに向かう親王に同道しようとした姫は、浜松市北区細江町気賀の金地院の辺りで倒れ亡くなる。法号を「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」という。
金地院の西の丘には、「岩神」と刻んだ石碑と宝篋印塔の残欠がある。法号中の「岩」の字から岩神さまとして祀られ、かつては熱病が即座に治ると評判だったそうだ。
その後、宗良親王は信濃を拠点として抵抗を続けるものの南朝勢力は衰えていく。「南風競わず」とは、頼山陽が『日本外史』で南朝勢の振るわない様子を表すのに使った言葉だ。
出典は『左伝』襄公十八年条の「南風競わずして、死声多し」である。南方に位置する楚の歌が微弱で生気がないことをいう。南朝勢は確かに振るわなかったが、宗良親王御自身の歌は生気がないどころか、瑞々しい感じで大変お上手であった。