南北朝の争いは,天皇家と勤皇武士だけでなく,公家の争いでもあった。二条為忠は後醍醐天皇に近い立場にあり吉野で行動をともにする。南朝の歌集「新葉和歌集」にも作品が収められている。二条家は歌道で知られる御子左家の流れである。
岡山県苫田郡鏡野町中谷字近衛殿に「法大寺為忠」の墓がある。案内板がなければ見過ごしてしまうほど小さい。南朝の公家,近衛経忠の墓の北側にある。
法大寺為忠は,南朝の再興を図るためこの地に派遣され,弘秀寺に祈願していたが,落馬が原因で没したと伝えられる。案内板に記されている生没年,権中納言という役職から推測すると,二条為忠と同一人のようだ。
しかし,実際の二条為忠は吉野から京都へ帰参し,北朝でも官位を得て活躍したという。南朝の史跡には,謎多く哀愁を帯びたものが多い。
令和の時代になり 世の写り変わりの激しい中にあって私の好きな源風景が今尚残っている事は 探求者としてかけがいがない場所でもあります 特に この 岡山県の県北部は 古代の高天原圏域でもあり また 南北朝時代では 後醍醐天皇の足跡が残る 唯一の場所でありますし また その後の 後南朝の秘史が 残る場所でもあります 私自身も後南朝 最後の 伝承者と 思っていますが 所どころでは 地元の方がよく知っておられたり また 大事な場所なのに 地元の方が その歴史を忘れられていたりと 確かに 興味と言う判断に置いて分けられる事が多いのですが 寂しい思いを残す事も 多々ありました この様な 墓であっても 名前 また 由来が 薄れきて 来る時代を愁う次第であります 時として時代の流れの中で 幾万の武士 もののふ が未来の世作りの為に命を賭けた事自体 強者共の夢の後 ではなく 跡なのです と 言いたいのだが
投稿情報: 井上 よしのり | 2020/01/12 09:22