安徳天皇に譲位した高倉上皇は,ひと月後の治承四年三月に厳島行幸に出発する。『高倉院厳島御幸記』によると,往路は「備前の国こじまのとまりに着かせたまふ。御所つくりたり」と三月二十三日に,復路は「備前の国うちうみとほらせ給ふ。日いりかたにこじまにつかせたまふ」と四月一日に,備前児島の泊に着いている。
玉野市八浜町八浜の八浜八幡宮の参道に「高倉上皇御駐輦之地 こしまの泊」と刻まれた石碑がある。今では淡水の児島湖の最奥部に位置し海から遠く隔てられているが,当時は児島の内海を通る航路があった。
上皇は,往路で停泊した夕暮れ,美しく染まる対岸の山々についてお尋ねになり,「この向かいの山に松殿がいらっしゃいます」と,御治世中に摂政・関白を務めた藤原基房が清盛によって流されていることを教えられた。
「きこしめして御気色うち変りにしかば,人々までもあはれに思ふ心の中ども見えたり」 上皇の心中如何ばかりであったろうか。
しかし,平清盛に気遣った前例のないこの社参は,反平氏の動きを加速していくこととなる。上皇はまだ御存知なかったが,時代は変わろうとしていた。
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